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旧横田家住宅

旧横田家住宅

長野県長野市松代町、松代藩真田家の家臣で、150石の禄を受けていた横山家の住居が、旧横田家住宅。1000坪の敷地には、寄棟造りで茅葺きの主屋や、表門、隠居屋、土蔵のほか、庭園や菜園などもほぼ完全なかたちで残っており、主屋、表門、隠居屋、土蔵2棟は国の重要文化財に指定されています。

松代で城下町散策をするなら旧横田家住宅へ!

横田家は、松代藩真田家に仕えた中級武士で、御目付役や御使役、御取次、御金奉行を務めた家柄。
ルーツは鎌倉武士で、源頼朝の異母兄・源義平(みなもとのよしひら=通称・鎌倉悪源太)の家臣で、近江の横田を領地としていたために横田を名乗ったと伝えられています。
その後、源義平が六条河原において処刑されたため、源頼朝に仕え、源頼朝の奥州征伐に従って会津で功をあげたことで会津に領地を得、戦国時代末期には徳川家康の命で最上氏に仕えたともいわれていますが定かでありません(奥会津横田から横田を名乗ったという説も)。
記録によれば承応3年(1654年)頃、横田九郎左衛門が200石を拝領し、松代藩に仕え始め、弟・横田作右衛門が、兄の知行のうち150石を継いでいます。
明治維新後は横田数馬が埴科郡(はにしなぐん)の郡長を務め、次男・小松謙次郎は、松城藩士・小松政昭の養子となり、後に鉄道大臣にまで出世しています(そのため横田家住宅は小松謙次郎出生の地にもなっています)。
長男の横田秀雄は、大審院長を務め、大正〜昭和初期に明治大学学長に就任(学長時代に象山神社建立に奔走)。
また、次女の和田英は、富岡製糸場へ伝習工女として入場し(父の数馬は工女募集責任者)、回顧録『富岡日記』を著しています。

旧横田家住宅には式台や客座敷を備えた茅葺き(かやぶき)屋根の主屋をはじめ、表門、隠居屋なども改変が少なく現存。
松代の武家住宅の代表例で、往時の屋敷構(やしきがまえ=主屋を中心にして取り巻くすべての配置)を現在に伝えるものでは全国的に数少ない貴重な遺構となっています。

公開されているので、昔のままの風情のある母屋の縁側に腰掛けながら、当時の中級武士の生活の様子に、思いをはせることが可能。

表門も重要文化財に指定
旧横田家住宅
名称 旧横田家住宅/きゅうよこたけじゅうたく
所在地 長野県長野市松代町松代1434-1
関連HP 信州松代観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR長野駅からアルピコ交通バス松代高校行きで30分、松代八十二銀行前下車、徒歩5分
ドライブで 上信越自動車道長野ICから約2.5km
駐車場 9台/無料
問い合わせ 旧横田家住宅 TEL:026-278-2274
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

松代城

松代城(海津城/かいづじょう)は武田信玄と上杉謙信が相まみえた川中島合戦の際、1560(永禄3)年に信玄の拠点として築かれ、1622(元和8)年からは真田氏の居城となった城。『甲陽軍鑑』によれば山本勘助の築城。松代城公園となった一帯は国の史

長国寺

長野県長野市松代町(まつしろまち)、松代藩真田家の城下町・松代にある真田家の菩提寺が、長国寺(ちょうこくじ/正式名は長國寺)。天文16年(1547年)、武田信玄の家臣だった真田幸綱(さなだゆきつな=真田幸隆)が、真田郷(現・上田市真田町)の

 

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