長野県上田市にある聖武天皇の詔(みことのり)で信濃国に創建された古代寺院、国分僧寺(正式名は金光明四天王護国之寺)の跡が信濃国分寺跡。仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)の詔で諸国に築かれた国分寺のひとつで、信濃国分寺史跡公園として整備されています。
東大寺式の伽藍の礎石などが出土
寺域は100間四方で、東西176.56m、南北178.05m。
発掘調査により金堂、講堂、中門、塔、回廊、僧房の跡が確認された貴重な遺跡です。
伽藍は中門、金堂、講堂を南北一直線に配置し、中門と講堂を回廊で連絡し、さらに、塔を金堂の東南に置く、東大寺式といわれる様式。
建立に着手してから完成するまでには20年を費やしたと推測され、往時には金堂には釈迦牟尼仏が、塔には金光明最勝王経が祀られていました。
遺構自体は発掘調査後に埋め戻され、基壇が復元、史跡公園として整備され見学が可能。
西側には信濃国分尼寺跡も発掘され、国分寺と同規模だったことが判明しています。
信濃国分寺、信濃国分尼寺とともに信濃国分寺史跡公園として整備されていますが、斜めにしなの鉄道が横断しています。
信濃国分寺、信濃国分尼寺の出土品は、信濃国分寺史跡公園内の信濃国分寺資料館に収蔵展示されています。
ちなみに信濃国分寺跡の北300mほどの場所に建つ信濃国分寺(通称「八日堂」)は、後継寺院です。
古代、信濃国府は上田にあった!?
ちなみに、古代の東山道(とうざんどう)でヤマト王権と結ばれた科野国(信濃国)の国府は、当初は小県郡(ちいさがたぐん)、現在の上田市にあり、その後、律令時代に松本平に移されたと推測されています。
信濃国の国府が小県郡にあったというのはあくまでも推測の域を出ませんが、長野市南部から千曲市北部にかけての一帯には、森将軍塚古墳や川柳将軍塚古墳、倉科将軍塚古墳など県内最大級の前方後円墳が集中し、信濃国誕生以前の科野国造(しなぬのくにのみやつこ)の本拠地が小県郡だったこと、赴任した国司が参拝する総社、そして国分寺、国分尼寺が現在の上田市にあることからも、上田市にあったと考えるのが妥当だと思われます。
海野郷(現・東御市)には朝廷に直属する工人・爪工部(はたくみべ)がいたことも正倉院宝物から判明しているのです。
東山道も当初は伊那谷から諏訪、蓼科をへて碓氷峠に至るルートでしたが、伊那谷から松本平、保福寺峠を越える道に移されています。
これは、越国(大宝律令後は越前国、越中国、越後国)への分岐として松本平が重要視されたためだと考えられます。
「信濃道(しなのじ)は今の墾道刈株(はりみちかりばね)に足踏ましなむ沓(くつ)はけわが背」という『万葉集』に掲載された歌は、信濃国から防人(さきもり)として西国に派遣された人の歌。
「信濃の峠道はこのごろ切り開いたばかりときいております。どうかしっかり沓(くつ)をはいて、足を痛めぬように行って下さい」の意。
やっとヤマト王権からへと通じる道が開削された信濃国、峠を越えて、防人たちは九州沿岸など西国の任地へと向かったのです(倭軍が白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したことを契機に、大化の改新で防人の制度が定められました)。
信濃国分寺跡(信濃国分寺史跡公園) | |
名称 | 信濃国分寺跡(信濃国分寺史跡公園)/しなのこくぶんじあと(しなのこくぶんじしせきこうえん) |
所在地 | 長野県上田市国分 |
関連HP | 上田市公式ホームページ |
電車・バスで | しなの鉄道信濃国分寺駅から徒歩5分 |
ドライブで | 上信越自動車道上田菅平ICから約4.5km |
駐車場 | 信濃国分寺資料館駐車場を利用 |
問い合わせ | 信濃国分寺資料館 TEL:0268-27-8706 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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