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大船越瀬戸

長崎県対馬市にふたつある運河のうちのひとつ。ひとつは日露戦争の直前に帝国海軍が掘削した万関瀬戸、そしてもう1ヶ所が、江戸時代初めの1672(寛文12)年に開削された大船越瀬戸(おおふなこしせと)です。対馬の西岸と東岸を結ぶ運河で、国道382号の大船越橋が架けられています。

日朝貿易の窓口だった対馬藩が開削した運河

浅茅湾の東側に位置する瀬戸で、1672(寛文12)年、対馬藩3代藩主・宗義真(そうよしざね)によって開削されたもの。
1663年(寛文3年)には、宗義真は、5基の船着き場(現・お船江跡)を造るなど港湾の整備、そして税制改革、新田開発、対馬銀山の産銀増加などに尽力しています。

湊や運河は、朝鮮との重要な外交・貿易窓口としての港湾機能の拡充を目的にしたもの。
藩は密貿易などを取り締まるため「口留番所小船改」を設置しています。

幕末の1861(文久元)年2月には、ロシアの南下政策を反映して、浅海湾に侵入したロシア船「ボサドニック」が船の修理を理由に逗留。
対馬藩の退去命令を無視して、昼ヶ浦の芋崎に錨を下ろし小屋を建て、イギリス軍艦の圧力で退去するまで半年間も居座っています。

4月13日には大船越瀬戸をロシア船のボートが番所の制止を無視して強行突破を図り、番所に詰めた松村安五郎、吉野数之助が命を落とすという事件が勃発しています(大船越事件)。
日本史の中に埋もれていますが、開国直前の悲しい出来事となっており、松村安五郎「忠勇」の碑、吉野数之助「義烈」の碑が立っています。

大船越瀬戸
名称 大船越瀬戸/おおふなこしせと
Ofunakoshiseto canal
所在地 長崎県対馬市美津島町大船越
ドライブで 対馬空港から約4.4km。厳原港から約14.5km
問い合わせ 対馬観光物産協会 TEL:0920-52-1566/FAX:0920-52-1585
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

取材協力/内閣府

 

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