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御崎浦捕鯨納屋場跡

御崎浦捕鯨納屋場跡

日本近海のクジラは、日本海側を北上し、アラスカ方面で出産後、日本海を南下しますが、それを待ち構えたのが九州諸藩の鯨組といわれる捕鯨組織です。その最大の組織が現在の長崎県平戸市、生月島にあった益冨鯨組で、世界最大のマニュファクチュアともいわれています。その納屋の跡が御崎浦捕鯨納屋場跡(みさきうらほげいなやばあと)です。

江戸時代に行なわれた古式捕鯨で、日本最大の鯨組が生月島に!

勢子船(キャッチャーボート)、持双船(捕獲したクジラを移送する船)、網船など50艘ほどの大船団を組織し、北上、南下するクジラを待ち構えて捕獲していました。
江戸時代には鎖国が続いたので、外国の捕鯨技術が伝搬することなく、日本の捕鯨は、独自の技術と文化を保っていました。

益冨鯨組は、最盛期の江戸時代後期には5つの網組を擁し、3000人もの従業員が働く、古式捕鯨業時代で最大規模の鯨組だったのです。

福山藩の田島浦(現・広島県福山市)から優秀な網職人をスカウトするなど網職人の確保にも苦心したといわれています。

生月島の北東岸にある御崎浦にある捕鯨納屋場跡は、享保14年(1729年)に益冨組が舘浦から漁場を移した後、明治30年まで鯨を解体、加工する施設が軒を並べた場所です。

鯨の解体は、波打ち際でが行なわれ、陸上には鯨の加工を行う大納屋、小納屋、骨納屋、筋納屋、さらに船や道具類の修理をする建物群、数百人という従業員が暮らす長屋が建ち並んでいました。

現在は礎石の一部、岬神社の石祠が現存するのみですが、納屋場の背後にある墓地には、備後・田島浦の網漁師の名も刻まれた墓石が残されています。
天明8年(1788年)12月4日には、司馬江漢(しばこうかん)が平戸島の薄香浦から船で、須草経由で生月島に渡り、1月4日まで益冨又左衛門宅に滞在し、捕鯨の様子、鯨の解体などを絵に残しています。

壱部漁港背後の住吉神社の鳥居は、益冨家が捕鯨全盛期の寛政9年(1797年)に寄進したもの。

司馬江漢『鯨漁之図』
水軍と鯨組の関係とは!?
日本各地の鯨組のルーツは熊野水軍などの水軍。
組織的な操舟技術と高度化した鉄製の武器が古式捕鯨を生み出したのです。
九州各地の鯨組のルーツ、技術の伝播先といえるのが、瀬戸内海で活躍した村上水軍で、15世紀に村上水軍の領主・能島村上家が備後・田島浦(現・広島県福山市)を領有するようになり、その後、鯨組の水主・網大工九州諸藩にスカウトされて、生月島の益冨鯨組(平戸藩)、深沢鯨組(大村藩)、中尾鯨組(唐津藩)などに雇用されています。
これが世界でも最大のマニュファクチュアといわれる鯨組で、それまで主に銛(もり)を使っていた鯨漁が、鯨網を併用することで捕獲率がアップしたのです。
生月島の益冨家は、江戸時代中期~明治時代初期まで、約150年にわたって操業した鯨組。
最盛期の19世紀前半には生月島、壱岐、五島などで5つの鯨組と3000人もの従業員を擁した日本最大の鯨組主です。
平戸市生月町壱部浦182には、鯨組主益冨家居宅が残されています。
御崎浦捕鯨納屋場跡
名称 御崎浦捕鯨納屋場跡/みさきうらほげいなやばあと
所在地 長崎県平戸市生月町壱部
関連HP 平戸市公式ホームページ
ドライブで 西九州自動車道佐々ICから約48km
駐車場 御崎浦漁港駐車場を利用
問い合わせ 平戸市文化交流課 TEL:0950-22-4111/FAX:0950-23-3399
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

平戸市生月町博物館 島の館

2018年11月27日

道の駅生月大橋

2018年11月27日

 

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