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ペリー提督上陸記念碑

ペリー提督上陸記念碑

沖縄県那覇市泊、泊外人墓地(泊港北岸)に立つのが、ペリー提督上陸記念碑。東インド艦隊司令長官のペリーは、フィルモア大統領の親書を携えて日本・江戸湾を目指しますが、その途中、琉球国に立ち寄り、1853年5月26日に那覇・泊沖に停泊、6月6日、琉球王府の抵抗を押し切り首里城に入城しています。

ペリーが浦賀来航前に、琉球にも立ち寄り、上陸した地

ペリーは首里城への訪問を打診しましたが、琉球王府はこれを拒否。
ペリーはこれを無視して、武装した兵員とともに上陸し、行進しながら首里城まで進軍、入城を迫ります。
琉球王府は、武具の持込み、兵の入城だけは拒否し、ペリーは武装解除した士官数名とともに首里城内に入り、北殿で茶と菓子でのもてなしを受けています。
このとき、ペリーは琉球王府に対し、開国を促すフィルモア大統領親書を手渡し、さらに返礼として王府の高官を旗艦「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振る舞っています。

当時の琉球王国は、薩摩藩島津氏の統治下に置かれていましたが、清国との朝貢関係も維持するという「両属」の体制で存続を図っていました。

艦隊の一部は那覇にとどまり、6月9日に出航、6月14日〜6月18日にかけて、領有のはっきりしない小笠原諸島を探検、小笠原の領有を宣言しますが、イギリスの抗議を受け、領有に関してはあいまいになっています。
ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還、その後、7月2日、浦賀を目指して出航しています。
浦賀に到着するのは、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)夕刻のこと。

あまり知られていませんが、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、江戸幕府と日米和親条約(神奈川条約=下田と箱館の2港の開港を約束)を締結した後、那覇に寄港し、1854年7月11日、琉球国中山府「総理大臣尚宏勲」および「布政大夫馬良才」との間にも琉米修好条約(正式名は「亜米利加合衆国琉球王国政府トノ定約」)を結び、琉球王府はアメリカに対し水、食料、燃料(薪)の補給、遭難船の救助、外国人墓地の保護などを約束しています。

当時のアメリカは捕鯨船の寄港、東アジアへの航路の確保が重要な課題で、琉球も重要な位置にあったのです。

アメリが軍政下の昭和25年5月26日、シーツ軍政長官は、ペリーが那覇に到来した5月26日を「琉米親善日」に指定しています。

ペリー提督上陸記念碑
名称 ペリー提督上陸記念碑/ぺりーていとくじょうりくきねんひ
所在地 沖縄県那覇市泊3-20-1
関連HP 那覇市公式ホームページ
電車・バスで ゆいレール美栄橋駅から徒歩15分
ドライブで 那覇空港から約5.5km
問い合わせ 那覇市観光案内所 TEL:098-868-4887
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

聖現寺

沖縄県那覇市上之屋、天久寺(あまくぬてぃら)とも呼ばれる真言宗の寺が、聖現寺(せいげんじ)。琉球王国に庇護された琉球八社(末吉宮、波上宮、沖宮、識名宮、普天満宮、安里八幡宮、天久宮、金武宮)のひとつ天久宮の別当寺だった寺です。沖縄戦で大きな

ペリー上陸地は、全国に6ヶ所も!

東インド艦隊司令長官のペリー提督は、太平洋航路や捕鯨船の補給地確保もあって徳川幕府に開国を迫るため。嘉永6年(1853年)、フィルモア大統領の親書を携え来航、そしてその翌年に日米和親条約を締結、下田、箱館を開港させています。その間に上陸した

 

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