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太融寺・淀殿の墓

太融寺・淀殿の墓

大阪府大阪市北区太融寺町、弘仁12年(821年)、空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅願により創建した古刹が、太融寺(たいゆうじ)。境内西北隅には淀殿の墓があり、見学、参拝が可能。淀殿の墓は、明治10年、城東練兵場(現・大阪城公園)の造成にともなって太融寺に移されたもの。

明治10年、淀姫神社から移された淀殿の墓

大坂城落城によって秀頼とともに自刃した淀の遺骨は、淀が尊崇したという大坂城外にあった鴫野弁天島・弁天社の隣に埋葬、淀姫神社(現・大阪ビジネスパーク)となりましたが、明治10年、城東練兵場の造成に当たり、淀姫神社が生国魂神社に移されることとなり、墓の部分は太融寺に移されて、九輪の塔が建立されたもの。
九輪の塔は大阪空襲で損傷し、現在は六輪塔になっています。
法名は、大虞院英岩。

豊臣秀吉の側室・淀殿は、浅井三姉妹(あざいさんしまい=茶々、初、江)の長女、浅井茶々(あざいちゃちゃ)。
天正17年(1589年)、棄(鶴松=2歳で没)を生んだことを喜んだ秀吉は、茶々に山城国・淀城を与え、淀君と呼ばれるように。
文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を出産し、秀吉没後はその後見人となって、豊臣政権の中心に。

関ヶ原の合戦では家康とも通じて比較的に中立を保ちますが、徳川幕府の誕生後、豊臣秀頼の上洛要求などを拒否し、決定的な対立が生まれ、ついには大坂の陣へと発展。

慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で大坂城は陥落し、山里曲輪(やまざとくるわ)にある隅矢倉で、千姫などによる助命嘆願が実現するのを待ちますが、それも叶わず、豊臣秀頼や大野治長らと自刃。
大阪城公園内の山里曲輪には、「豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地」の石碑が立っています。
淀君の遺骸などは特定されておらず、落ち延びたという説も生まれているように、埋葬に関しても定かではありません。

太融寺・淀殿の墓
名称 太融寺・淀殿の墓/たいゆうじ・よどどののはか
所在地 大阪府大阪市北区太融寺町3-7
関連HP 太融寺公式ホームページ
電車・バスで 地下鉄東梅田駅から徒歩7分。または、JR大坂駅、阪急・阪神・地下鉄梅田駅から徒歩10分
ドライブで 阪神高速12号守口線扇町出口から約500m
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 太融寺 TEL:06-6311-5480
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地

京、方広寺に鋳造された鐘に刻まれた銘文(方広寺鐘銘事件)から発展した豊臣勢力に対する厳しい処置。その後、大坂夏の陣が起こり、大坂城の堀が埋め立てられ、ついに慶長20年5月8日(1615年6月4日)、大坂夏の陣で、豊臣秀頼と淀殿は自害に追い詰

太融寺

弘仁12年(821年)、嵯峨天皇の勅願により空海(弘法大師)が創建と伝わる大阪市北区太融寺町にある高野山真言宗の古刹が太融寺(たいゆうじ)。本尊の千手観世音菩薩は、嵯峨天皇の念持仏という伝承が。左大臣・源融(みなもとのとおる=紫式部『源氏物

 

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