天王寺公園の北端にある小さな小山が茶臼山。大阪市内で最大級の前方後円墳との説もありますが、延暦7年(788年)に和気清麻呂が上町台地を掘削したときの残土を盛った丘ともいわれています。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で徳川家康が、翌年の大坂夏の陣で真田幸村が本陣を構えた場所にもなっています。
茶臼山が古墳なのは疑問視されている
昭和61年の発掘調査の結果では埴輪や葺石などが確認されておらず、5世紀ごろの古墳という説は疑問視されるようになっています。
しかし、規則正しい造りは、堺市の大塚山古墳や御勝山古墳にも共通するものがあり、古墳でないと断定するまでには至っていません。
昭和61年の発掘調査では、茶臼山の北西の麓で瓦を敷いた建物跡や竈(かまど)の跡が発掘され、さらに東側の麓では幅10m、深さ5mを越える大規模な堀割が見つかっています。
茶臼山が古墳であることには疑問符が付きましたが、家康本陣以前に人工の築山として存在したことも立証されたのです。
発掘調査で徳川家康の本陣遺構が確認された!
寛保元年(1741年)に徳川吉宗に献上された『武徳編年集成』に「(徳川家康の)ご寝所は絶頂にして南北十二畳の外、三間に一間の庇ありて五尺の椽を附る。西の麓に四畳半の茶亭、南の麓に二間四方の納戸、東向に二間四方の浴室を建べし、東の麓に二十畳の一室、是近臣の席とすべし、北の麓に庖厨を設け、惣台盤所は乾堀の外たるべし」という記述のなかの「北の麓に庖厨を設け」とも一致することから、徳川家康の本陣の遺構である可能性が高まっています。
大坂城を包囲した徳川家康は、慶長19年12月5日(1615年1月4日)、住吉から茶臼山に本陣を移しています。
慶長20年5月7日(1615年6月3日)、最終決戦のため豊臣方の各武将は未明に大坂城を出発し、茶臼山には真田幸村(信繁)、子の真田幸昌、一族の真田信倍ら兵3500が陣を敷いています。
この時の戦いが天王寺・岡山の戦いで、真田幸村も安居神社(安居天満宮)で休息をとっていたところを討ち取られています。
城としては、天文15年(1546年)、細川晴元の家臣・山中又三郎が古墳の後円部に大塚城を築いたのが始まりとされています。
明治以降は、茶臼山一帯は住友家邸宅の敷地となり、大正14年に住友家から邸宅敷地と慶沢園が大阪市に寄付され、天王寺公園の一部になっています。
茶臼山(天王寺公園) | |
名称 | 茶臼山(天王寺公園)/ちゃうすやま(てんのうじこうえん) |
所在地 | 大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1-108 |
関連HP | 大阪市花と緑の情報サイト |
電車・バスで | 地下鉄堺筋線動物園前駅から徒歩10分、JR天王寺駅から徒歩10分 |
ドライブで | 阪神高速14号松原線天王寺出口から100mで天王寺公園地下駐車場 |
駐車場 | 天王寺公園地下駐車場(500台/有料) |
問い合わせ | 天王寺動物公園事務所 TEL:06-6771-8401/FAX:06-6772-4633 |
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