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池上曽根史跡公園

池上曽根史跡公園

大阪府和泉市池上町3丁目にある弥生時代の全期間(2300年前~1800年前)を通じて営まれた、わが国屈指の環濠集落の遺構が、池上曽根史跡。一帯は池上曽根史跡公園として整備され、弥生時代最大級の規模を有する弥生時代中期の大型建物も復元されています。

邪馬台国への移行期を物語る、弥生時代中期頃の環濠集落

平成7年の発掘調査で、集落の中心部で見つかった大型建物は、東西19.2m、南北6.9m、面積133平米という巨大なもので、掘立柱建物ながらその巨大さは弥生時代のイメージを塗りかえる大型建築です。
大型建物は太い柱26本で支え、そのうち18本は根本が腐らずに残されており、太いものでは直径60cmの太さがありました。
また、大型掘立柱建物に残された柱のひとつが紀元前52年に伐採されたことが明らかになり(この年代の判明で、当初考えられていたよりも100年も古い時代のものであることがわかっています)、弥生時代研究に大きな足跡を残しています。

花粉などの自然遺物の分析から、大型建物が建てられた弥生時代には、アカガシなどの広葉樹が茂り、アシ、ススキなどの湿地草原が遺跡周辺に広がっていといたと推測されています。
当時の大阪湾は、池上曽根遺跡のわずか2km後方にまで迫まり、周囲には湿地帯が広がり、遺跡の北側には水田が耕作されていました。


復元された大型建物は、壁のない高床建物で、2階部分が80畳もの屋根裏という屋根倉形式といわれる形で、近くで出土した土器に描かれていた弥生時代の建物の絵をもとに、全体の形が決められています。
使用した木材は、和泉市父鬼町の三国山で伐切された50本のヒノキです(井筒に用いたクスノキの大木は、東大阪市の寄贈)。

建物の南側に掘られた井戸は、直径2.3mのクスノキの大木を刳りぬいて井筒(内径1.9m)にしており、くりぬき井戸としてはわが国最大のもの。
井戸の周囲には石器や土器を埋めた「祭りの場」、その横に青銅器や鉄器を作っていた当時の工房の跡もあります。

大型建物と井戸の復元完成を記念して、全国から名前を公募し、建物は「いずみの高殿」、井戸は「やよいの大井戸」という愛称が付けられています。

ガイダンス施設として「池上曽根弥生情報館」があり、池上曽根史跡公園とともに無料で利用できます。

「年輪年代法」によって明らかになった大型建物の建築年代

池上曽根史跡が発見されたのは、明治時代後期、「池上曽根遺跡の父」と呼ばれる南繁則によって。
昭和39年に第二阪和国道の建設予定地が池上曽根遺跡を南北に貫通するということが発表され、南繁則らによる遺跡保護運動が展開。

大阪府教育委員会による遺跡範囲確認調査で、遺跡は南北約1000m、東西500mという広大なものであることが明らかになり、第二阪和国道は迂回することもできず、予定どおりの路線で道路が貫通、昭和51年に遺跡中心部が国史跡となり、道路以外の部分は保存されることが決まりました。

平成8年、大型建物の柱のひとつが「年輪年代法」によって紀元前52年に伐採されたことが判明したことから、それまでに推測されていた紀元後1世紀半ば頃(漢が倭の奴国王に金印を授けた時代)よりも100年も遡ることが明らかになり、エポックメーキングな出来事となったのです。

池上曽根史跡公園
名称 池上曽根史跡公園/いけがみそねしせきこうえん
所在地 大阪府和泉市池上町4-14-13
関連HP 和泉市公式ホームページ
電車・バスで JR信太山駅から徒歩10分。または、南海本線松ノ浜駅から徒歩20分
駐車場 あり/無料
問い合わせ 池上曽根弥生情報館 TEL:0725-45-5544/FAX:0725-45-5544
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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