大阪府羽曳野市軽里にある古墳が、小口山古墳(こぐちやまこふん)。直径30mの円墳で、凝灰岩の巨石をくり抜いた横口式石槨(よこぐちしきせっかく)が備わっています。横口式石槨は、同じ羽曳野市の観音塚古墳にも見られ、7世紀後半(飛鳥時代)に築造された終末期古墳のひとつです。
凝灰岩の巨石をくり抜いた横口式石槨が露頭
峯ヶ塚古墳(みねがつかこふん)の西200m、羽曳野丘陵の東縁に位置する古墳。
明治45年、一帯の開墾の際に発見され、独自の日本民族成立論を展開した喜田貞吉(きださだきち)が「河内軽里の掘抜石棺」(かわちかるさとのほりぬきせっかん)として紹介し、有名になりました。
古墳の西側、はびきの2丁目には7世紀中頃に創建し、白鳳時代に栄えた古代寺院(薬師寺式伽藍配置)・善正寺(ぜんしょうじ)の跡があることから、善正寺に関係する人物が埋葬されている可能性が推測されています。
古墳のある羽曳野丘陵(「河内飛鳥」と呼ばれる一帯)からは小口山古墳、ヒチンジョ池西古墳という終末期古墳、奈良時代の火葬墓(かそうぼ)が発見されています。
いずれも白村江の戦いで国が滅亡した新羅(しらぎ)など、古代の朝鮮半島の政情不安で倭国・日本に渡ってきた渡来系氏族の墓だと推測され、機織(はたおり)、陶器の生産、鉄製品、乗馬、文字、暦法、仏教、土木技術などの先進文化を河内飛鳥の地に伝えています。
一帯は「もうひとつの飛鳥」とも呼ばれ、古代には先進文化が花開いていたのです。
小口山古墳、ヒチンジョ池西古墳は、丹比道(たじひみち=難波津と大和の都を結び、河内平野を東西に走っていた直線古道、近世の竹内街道の前身)と呼ばれる古道(官道)沿いに築かれていることからも、重要な役割を担った人物だったことがわかります。
小口山古墳 | |
名称 | 小口山古墳/こぐちやまこふん |
所在地 | 大阪府羽曳野市はびきの2-3-7 |
関連HP | 羽曳野市公式ホームページ |
電車・バスで | 近鉄古市駅から徒歩20分 |
ドライブで | 南阪奈道路羽曳野ICから約3km |
駐車場 | 峰塚公園駐車場(48台/有料) |
問い合わせ | 羽曳野市教育委員会事務局 TEL:072-958-1111/FAX:072-947-3633 |
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