大阪府大阪市中央区伏見町3丁目、心斎橋筋に面して建つのが、芝川ビル。昭和2年7月1日竣工したレトロなビルは、現在の伏見町で唐物商(欧米品の輸入業)「百足屋」を営む家に生まれ、ニッカウヰスキーの竹鶴政孝(たけつるまさたか)を支援し続けた芝川又四郎(しばかわまたしろう)が建てたもの。
竹鶴政孝を支援し続けた芝川又四郎のビル
江戸時代の末期、芝川又平(初代・荒川又右衛門、隠居後・又平)の時代に大坂(現・大阪市)の河口地帯の千島、千歳、加賀屋の三新田の土地経営を行なう大地主で、明治維新後は唐物商を営んでもいました。
その際、本邸としたのが伏見町、現在の芝川ビルの建つ一角です。
芝川又四郎の代になって明治16年にリスクの高い唐物商「百足屋」をたたみ、不動産業を主軸に移し、明治45年には千島土地を創立しています。
並行して明治29年、上ケ原(現・西宮市)に果樹園「甲東園」開設し、甲州ブドウや天津桃の栽培をしていました(阪急電鉄甲東園駅の土地も芝川又四郎が寄付)。
芝川又四郎は、スコットランド留学から愛妻・リタを連れての帰国後の大正12年から大正14年に山崎に転居するまで竹鶴政孝が暮らした帝塚山の家の家主。
当時、芝川邸も近かったため、竹鶴政孝の妻・リタは、芝川又四郎の娘・百合子の英語教師にもなっており、竹鶴政孝が寿屋勤務を終えて独立を決意したとき、協力な後ろ盾になったのが芝川又四郎だったのです。
そして、ニッカウヰスキーの前身である大日本果汁株式会社が設立式も芝川ビルで行なわれ、あまり知られていませんが、この芝川ビルは「ニッカウヰスキー設立の地」でもあるのです(ちなみに、大株主だった芝川又四郎と加賀正太郎が、加賀正太郎の死期に保有する株をアサヒビールに売却したため、ニッカウヰスキーはアサヒビールの傘下に入り、さらなる発展を遂げています)。
マヤ・インカの装飾を纏った芝川ビルの設計は、渋谷五郎(基本計画・構造設計)と本間乙彦(ほんまおとひこ/意匠設計)。
施工は竹中工務店で、当時貴重だった鉄筋コンクリート造りの耐火建築、金額で25万円という巨費をかけて建築されています(国の登録有形文化財)。
耐火建築を建てたのは、勉強熱心だった芝川又四郎が大阪倶楽部において建築家・片岡安 (かたおかやすし=辰野金吾と共同で大阪に建築事務所を開き、大阪市中央公会堂など多くの作品を残しています)の講演を聞き、耐火建築の重要性を悟ったからです。
1階に入居する「The Court」(ザ・コート)は、「余市」、「宮城峡」などニッカウヰスキー製品を中心としたラインナップを展開するパブリック・バーですが、日中はカフェとしても利用できます。
芝川ビル | |
名称 | 芝川ビル/しばかわびる |
所在地 | 大阪府大阪市中央区伏見町3-3-3 |
関連HP | 芝川ビル公式ホームページ |
電車・バスで | 大阪メトロ淀屋橋駅から徒歩1分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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