神奈川県川崎市多摩区、京王相模原線・京王よみうりランド駅の南東の丘陵にあるのが、小沢城の城跡。『新編武蔵風土記稿』に鎌倉時代初頭、小沢小太郎の居城だったと伝える中世の城で、麓を鎌倉街道が通り、北に多摩川が流れるという要衝で、戦国時代には小田原の北条氏と、関東に侵攻する上杉氏の最前線となりました。
鎌倉幕府の北の守りとしてて天然の要害を利用して築城
江戸時代後半の文化文政期(1804年〜1829年)に編纂された『新編武蔵風土記稿』に小沢小太郎の居城と記されていますが、小沢小太郎は源頼朝の重臣・稲毛三郎重成の子。
記述が正しければ、平安時代の末には一帯を支配した小沢小太郎が城館を築いていたことになります。
鎌倉時代には鎌倉幕府の北の守りとして機能していました。
元弘3年(1333年)、鎌倉討幕のために挙兵した新田義貞軍が鎌倉幕府軍を打ち破った分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)の地は、小沢城北西側の多摩川の河原での大合戦だったため小沢城には幕府軍の兵が守備していました。
時の鎌倉幕府執権・北条高時は、小沢城に兵を集めて新田軍を待ちかまえ、多摩川で侵攻を食い止めようと考えていたのです。
分倍河原で幕府軍は奮戦するも敗走、新田軍は、 小沢城に近い仙谷山寿福寺や極楽寺などに火を放っています(寿福寺は現存しますが、極楽寺は薬師堂のみ現存)。
鎌倉幕府が滅び、南北朝時代になっても、小沢城には平和は訪れず、観応2年・正平6年(1351年)、初代・鎌倉公方(かまくらくぼう=室町幕府設置の鎌倉統治の長官)足利基氏(あしかがもとうじ)が、小沢城に籠もった足利直義(あしかがただよし=室町幕府初代将軍・足利尊氏の同母弟)の軍勢を攻め落としています。
戦国時代にも永正元年(1504年)、上杉朝良(うえすぎともよし=今川氏との関係を重視した扇谷上杉氏で、武蔵国河越城が居城)を助けるため北条早雲の軍勢が上杉顕定(うえすぎあきさだ=越後上杉家の出身で山内上杉家を継承、関東管領)の軍を打ち破っています。
享禄3年(1530年)、武蔵最大の支配力を持つ扇谷上杉家の当主・上杉朝興(うえすぎともおき=対立した山内上杉家と和睦し、北条氏に敵対)に対し、北条氏の軍勢は小沢城に陣を張り、これを迎え撃ち撃破しています。
これが北条氏綱の嫡男・北条氏康(ほうじょううじやす)の初陣で、世にいう小沢原の戦(おざわがはらのいくさ)です。
まさに中世、東国の要衝として機能した相模の山城ですが、豊臣秀吉の小田原攻め以降、城としての機能は失われています。
一帯は、都市開発からも逃れ、小沢城址特別緑地保全地区に指定(周辺まで住宅地が迫っています)。
空壕、土塁、物見台跡、館跡、井戸跡などが現存、尾根沿いに手軽な散策コースも用意されています。
現存する遺構は戦国時代(室町時代)のものと推測され、貴重です。
江戸時代の富士講の隆盛を反映して、城跡を富士塚にあてはめ、浅間神社も築かれています(富士登山三十三度大願成就記念碑などが現存)。
多摩丘陵に残されたクヌギやコナラの樹林の中を歩く多摩自然遊歩道の一部で、小沢城まで京王稲田堤駅、JR南武線・稲田堤駅から2kmほど(薬師堂経由で2250m)。
川崎市、京王よみうりランド近くにある知られざる名城、小沢城へ! | |
所在地 | 神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1-4 |
場所 | 小沢城 |
関連HP | 川崎市公式ホームページ |
電車・バスで | JR稲田堤駅・京王稲田堤駅から徒歩20分 |
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