「日本三大パンメーカー」は、山崎製パン(東京都)と名古屋市に本社を構えるフジパン、敷島製パンの3社です。山崎製パンは昭和23年、千葉県市川市に創業の戦後のメーカー。フジ、敷島はレトロなネーミングでおわかりのように、ともに大正時代の創業。なぜ名古屋にパンメーカーが多いのでしょう?
大正時代の米騒動、第一次世界大戦を機に、敷島パン創業
人気の「超熟」で知られるパスコは、高度経済成長時代の昭和44年、敷島製パンの東京進出時に誕生したブランドです。
敷島製パンは、大正9年に創業。
その背景には、第一次世界大戦、大正7年8月2日の日本軍のシベリア出兵によってもたらされた異常なまでもの戦争景気、物価上昇がありました。
なかでも米は買い占めが進み、天井知らずの価格上昇となり、大正7年1月に1石15円だった米価は、50円を超え、三井物産などの商社による外国米の大量輸入も行なわれましたが、米価は下がりませんでした。
原因すら異なるものの、何やら、「令和の米騒動」にも通じる話ですが、大正7年夏には富山でついに「魚津町にては、米積み込みの為客月一八日汽船伊吹丸寄港に際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」という有名な米騒動が勃発、全国に広がっていきました。
こうした米価高騰、米不足を目にした盛田善平(もりたぜんぺい)は、パン作りを始めたのです。
盛田善平は、中埜酢店(現・ミツカン)の4代目・中埜又左衛門(なかのまたざえもん)とともに「カブトビール」の名で知られる丸三麦酒醸造所を明治20年に愛知県半田町(現・半田市)
創業していましたが、綿糸の糊付け(小麦粉を水に溶いて煮込んで粘土を高めて糊に)に使用されていた小麦粉に着目(半田のある知多半島は織布産業が盛んで、綿糸ののりづけに使うため、原料である小麦粉が飛ぶように売れていました)。
明治32年、敷島屋製粉工場を同じ半田町に創業、当初はマカロニ製造にチャレンジしますが、マカロニの穴に苦戦。
第一次世界大戦時に、「名古屋俘虜収容所」(ドイツ人捕虜収容所/現・愛知県立旭丘高校の敷地)に収容されていたパン職人のハインリヒ・フロインドリーブ(Heinrich Freundlieb)と出会い、大正8年に釈放されると敷島製パン初代技師長にスカウト。
ハインリヒ・フロインドリーブは、後に神戸市でパン屋を開いていますが、その物語がNHK朝の連続テレビ小説『風見鶏』(昭和52年10月3日〜昭和53年4月1日)で、神戸の異人館ブームを生み出しました。
つまり、敷島製パンは、ハインリヒ・フロインドリーブをスカウトして創業ということに。
創業の理念は、「金儲けは結果であり、目的ではない。食糧難の解決が開業の第一の意義であり、事業は社会に貢献するところがあればこそ発展する」なので、米不足対策が大きな要因だったことがわかります。
愛知県はきしめんなどの麺文化が有名ですが、明治時代から名古屋市郊外でも小麦はたくさん作付けされ(明治時代には自給自足を達成)、余剰した小麦粉は、お好み焼き、もんじゃき、そしてパン作りに使われたのです。
敷島製パンの創業者・盛田善平にとっては、ビールの原料だった麦は、身近な存在だったに違いありません。
パンといえば東京の「木村屋」、大阪の「○キ」と呼ばれた時代、割って入った敷島製パン、そしてフジパン(創業時は「金城軒」)が名古屋に誕生したのです。
TOPの画像/【超熟CM】超熟 国産小麦 「オフのブランチ」篇
日本三大パンメーカー、なぜ名古屋に2社!? 「米騒動」にもつながる誕生の歴史 | |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag