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岩槻城(岩槻城址公園)

岩槻城(岩槻城址公園)

武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩の藩庁が岩槻城(いわつきじょう)。岩付城、岩附城、白鶴城、浮城とも呼ばれた城跡は岩槻城址公園として整備されています。中世には岩付太田氏の居城でしたが、徳川家康の関東入封後には高力清長が2万石で岩槻城に入城し、以来、譜代大名の居城となっています。

新曲輪、鍛冶曲輪部分を城址公園として整備

黒門
裏門

江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入り、明治維新に至るまで大岡氏の居城となりました。
城下町の周囲を土塁と堀で取り囲んだ大構(おおがまえ)という珍しい構造で、小田原城と同様に、小田原北条氏が戦国時代末期、豊臣秀吉の攻撃に備えて総延長8kmの土塁を築造したと推測されています(その大構の土塁の一部は、愛宕神社周辺に現存=さいたま市岩槻区本町3丁目の愛宕神社は土塁の上に鎮座)。

城跡一帯は住宅家が進み、本丸があった場所は住宅に。
14.54haの岩槻城址公園は新曲輪、鍛冶曲輪で、本丸ではありません。
本丸、二の丸、三の丸などの主郭部は、その北西側です。

岩槻城址公園に黒門と裏門が移築され現存。
黒門は三の丸藩主居宅の長屋門だったと推測されています。
曲輪の深い空堀が現存し、遊歩道も整備。

公園内には特急車1720系「デラックスロマンスカー」の第1編成(ロマンスカーきぬ号)の東武日光方の先頭車である1726号が静態保存されています。
さいたま市民会館いわつき、岩槻城址公園野球場、岩槻城址公園テニスコート、岩槻城址公民館などが公園内に立地。

春には600本の桜が咲き誇り、4月の第1土・日曜には『岩槻城址公園桜まつり』も開催。

 

岩槻城(岩槻城址公園)
名称 岩槻城(岩槻城址公園)/いわつきじょう(いわつきじょうしこうえん)
所在地 埼玉県さいたま市岩槻区太田3-4
関連HP さいたま市公式ホームページ
電車・バスで 東武野田線岩槻駅から徒歩25分
ドライブで 東北自動車道岩槻ICから約3.5km
駐車場 第1駐車場(78台/無料)、第2駐車場(150台/無料)、第3駐車場(63台/無料)、臨時駐車場(50台/無料)
問い合わせ 岩槻城址公園 TEL:048-757-9122/FAX:048-878-8310
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

深谷城(深谷城址公園)

埼玉県深谷市にある平城の跡が、深谷城。城跡一帯は深谷城址公園として整備されています。康正2年(1456年)、深谷上杉氏の上杉房憲(うえすぎのりふさ)が古河公方の侵攻に備えて築城。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐まで、深谷上杉氏

岩槻城・黒門

埼玉県さいたま市岩槻区、岩槻城址公園テニスコートの南側にあるのが、岩槻城・黒門。明治4年の廃藩置県で、岩槻藩の藩庁だった岩槻城は廃城となり、埼玉県の誕生とともに、黒門も浦和に移されて埼玉県庁正門などに利用されましたが、昭和29年、当時の岩槻

岩槻・時の鐘

埼玉県さいたま市岩槻区、岩槻城址公園の西側、渋江交差点近くにあるのが岩槻・時の鐘。寛文11年(1671年)が、岩槻藩主・阿部正春(あべまさはる)が渋江口に設置した時鐘で、享保5年(1720年)の改鋳を経て、現在に至るまで、毎日、6:00、正

 

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