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法長寺(秩父三十四所観音霊場・札所7番)

法長寺(秩父三十四所観音霊場・札所7番)

秩父札所めぐり途中、第5番・語歌堂から第10番・大慈寺までは、埼玉県横瀬町にあります。秩父三十四所観音霊場・札所7番が法長寺(ほうちょうじ)。山号は青苔山(せきたいざん)で、当初、根古屋3区の牛伏にあったので牛伏堂と呼ばれています。本尊は行基作と伝わる十一面観音菩薩です。

平賀源内設計とも伝わる本堂にも注目

天明2年(1782年)の火災で牛伏堂の観音堂が焼失したため、本尊が別当寺の法長寺本堂に遷されたため、現在は7番が法長寺になっています。

本堂は、間口24.4m、奥行18m。
秩父札所随一の大伽藍を誇り、本堂の中に観音堂があるという珍しい造りで平賀源内の原図を元に設計されたと伝えられています。
正面の欄間には、四国札所86番志度寺(しどじ)の縁起玉取り物語の彫刻も。

広重・豊国作 『観音霊験記 秩父順礼』 第七番牛伏青苔山法長寺 花薗左衛門督長臣某

幕末の安政5年(1858年)、午歳総開帳(うまどしそうかいちょう=札所本尊の総開帳)にあわせて、江戸で作成・販売された『観音霊験記』。
秩父六番札所の卜雲寺・萩野堂を描いた錦絵。
歌川広重が札所の様子を、さらに歌川豊国が札所にまつわる霊験(れいげん)を描いています。

平安時代の承平年間(931年~938年)、花薗の城主である某左衛門督の長臣某(ちょうしんなにがし)は、平将門(たいらのまさかど)の乱に加わり、天慶3年(940年)、官軍に攻められて山林に潜んでいましたが、ついに亡くなってしまいます。
ひとりの僧が戦禍を避け、寺の観音を携えて逃げていましたが、長臣の亡骸を埋葬。
長臣の親族も避難先から戻り、寺の僧に埋葬の話を聞きます。
その後、生まれた子牛が埋葬した塚の前で伏し、涙を流し、人の言葉で「私はあなたの夫です。自分の悪心の報いにより、このような牛になってしまいました。どうか母子ともに出家をし、この観音を供養して下さい。そうすれば私は必ず涅槃(ねはん)に至ることができます」と告げたのです。
ついに夫は畜生を転じて聖衆に生まれることができたという霊験(れいげん)で、この由来から牛伏という名が起きたのだとか。

霊場間の距離・時間

6番札所・卜雲寺 萩野堂(秩父郡横瀬町横瀬1430) — (0.7km/徒歩10分)— 7番札所・法長寺(秩父郡横瀬町横瀬1508)— (1.2km/徒歩20分) — 8番札所・西善寺(埼玉県秩父郡横瀬町横瀬598)

名称 法長寺(秩父三十四所観音霊場・札所7番)/ほうちょうじ
所在地 埼玉県秩父郡横瀬町横瀬1508
関連HP 横瀬町公式ホームページ
電車・バスで 西武秩父駅から西武観光バス松枝・長渕・根古屋ゆきで横瀬橋下車、徒歩10分
ドライブで 関越自動車道花園ICから約27km
問い合わせ TEL:0494-22-1921
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

卜雲寺・萩野堂(秩父三十四所観音霊場・札所6番)

埼玉県横瀬町の武甲山を眺める高台に建つのが秩父三十四所観音霊場・札所6番で、曹洞宗の寺、卜雲寺(ぼくうんじ)。荻野堂(おぎのどう)と呼ばれ、本尊は行基作と伝わる聖観音です。寺伝によれば本尊・聖観音は武甲山頂の蔵王権現社に永く鎮座していた後に

西善寺(秩父三十四所観音霊場・札所8番)

埼玉県横瀬町にある臨済宗南禅寺派の寺が西善寺。秩父三十四所観音霊場・札所8番で、本尊は阿弥陀三尊像(本堂上間に安置)。明治の廃仏毀釈で根岸堂が破壊されたため、十一面観音坐像を本堂に安置しています。ともに平安時代の天台僧・惠心僧都(えしんそう

 

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