埼玉県志木市、敷島神社境内にあるのが田子山富士塚。富士講の信者が、古墳といわれた田子山塚の上に三十三尺(10m)の土を盛り、2年8カ月の歳月をかけ、明治5年6月に丸吉講により完成した富士塚です。現存する富士塚では最大級のもので、国の重要文化財に指定されています。
富士塚築造の背景には新河岸川舟運と引又宿の繁栄が
もともと富士山信仰の富士講は、日本古来の神道に、山岳宗教の修験道、さらに仏教が加わったもので、江戸時代には富士山頂に大日如来を祀る大日堂を建てるなど、仏教色が強いものでした。
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈で、富士講も浅間神社を祀る神社として生き残りをかけましたが、そんな激動の時代に築かれたのが田子山富士塚です。
築造の発起人は、後に富士講(丸吉講)の先達(せんだつ)となった高須庄吉(たかすしょうきち)で、夢告により、田子山塚で暦応3年(1340年)と記された十瀧房承海の逆修板碑を発見したことが築造のきっかけです(現在、浅間下社に祀られています)。
高さ8.7m、直径30mという富士塚の表面には黒ボクと呼ばれる富士山の溶岩を配し、富士山同様に合目石を配し、木之花咲耶姫(このはなさくやひめ)の胎内という御胎内も築いています。
頂には木花開耶姫命を祀る浅間神社奥宮が鎮座。
烏帽子岩、小御嶽神社など113の石碑が現存し、その数も目をみはるものがあります。
近くを流れる新河岸川(しんがしがわ)には、江戸時代に川越藩が築いた引又河岸(ひきまたかし/明治7年以降は志木河岸)があり、川越と江戸を結ぶ舟運で栄えました。
奥州街道(現・志木街道)と交差する要衝で、宿場も形成され、商家も建ち並び、こうした舟運の便利さ、引又河岸の舟運関係者など、繁栄を背景にした財力で富士塚が築かれたのだと推測できます(高須庄吉も醤油醸造業を営んだ商家)。
富士山の山麓から運んだ溶岩も、相模川、江戸湾を経て新河岸川という舟運を利用して運び込まれたのでしょう。
埼玉県内で国の重要文化財に指定される富士塚は、木曽呂の富士塚と2ヶ所だけ。
東京都を含めても、豊島長崎の富士塚、江古田の富士塚、下谷坂本の富士塚と合わせて5ヶ所だけという貴重な富士塚です。
田子山富士塚は、地元の田子山富士保存会が年数回の草刈りを行なうなど、維持管理に尽力し(30年以上立ち入り禁止になっていた富士塚を修築)、年間を通じて、「大安」、「友引」は原則として登拝が可能(「入山の心得」を読み、マナーを守って登拝を)。
その他、正月三が日、節分祭、2月23日(富士山の日)、6月30日(夏越の大祓)、7月第1土曜(山開き)、8月11日(山の日)、8月21日に近い週末(山仕舞い)、七五三などの日が特別入山日と定められています(詳しくは田子山富士保存会HP参照)。
田子山富士塚(敷島神社) | |
名称 | 田子山富士塚(敷島神社)/たごやまふじづか(しきしまじんじゃ) |
所在地 | 埼玉県志木市本町2-9 敷島神社境内 |
関連HP | 田子山富士塚公式ホームページ |
電車・バスで | 東武志木駅から徒歩20分 |
問い合わせ | 田子山富士保存会事務局 TEL:048-471-0049 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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