埼玉県深谷市、深谷城址公園の東側に隣接して建つ冨士浅間神社の入口に立つのが、『みかんの花咲く丘』歌碑。昭和21年、終戦直後に生まれた童謡『みかんの花咲く丘』は、当時の深谷町本住町の実家に加藤省吾が疎開していたときに作詞とされています。
『みかんの花咲く丘』の歌詞は深谷で誕生!
昭和21年8月25日、NHKラジオ番組『空の劇場』で、人気の童謡歌手・川田正子が出演し、東京・内幸町のNHK本局と静岡県伊東市立西国民学校を結ぶ、ラジオの二元放送が行なわれることになりました。
作曲家・海沼實(かいぬまみのる)が作詞も行なう予定でしたが、でも放送日前日になってもいい題名、歌詞が浮かびません。
たまたま当時12歳の童謡歌手・川田正子を取材に来ていた『ミュージック・ライフ』の編集長・加藤省吾が富士市出身であることを知り(すでに『かわいい魚屋さん』を作詞、ヒットしていました)、加藤省吾の疎開していた熊谷を訪れて、その場ですぐに作詞をするように懇願。
伊東からの放送と聞いて、加藤は富士市の出身のため、すぐにミカンを連想しますが、当時、サトウハチロー作詞の『リンゴの唄』が並木路子と霧島昇の歌唱で大ヒットしていたので、二番煎じとなるのを恐れて、実ではなく花をテーマにすることに。
海沼實から加藤に対しては、伊東の丘に立ち、眼前の海には島と船が浮かび、船には黒い煙を吐かせてほしいという注文まで付けられていました(歌詞には注文が見事に盛り込まれています)。
『丘を越えて』(作詞・島田芳文、作曲・古賀政男)に触発されて作詞家になった加藤なので、『みかんの花咲く丘』という題名になったのかもしれません。
放送前日の8月24日の「24日の12時半から13時くらいの間」(加藤省吾自伝『「みかんの花咲く丘」わが人生』)、わずか30分ほどで詞が完成し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のチェックを受けた後、作曲家・海沼實ができたての歌詞を手にして伊東行きの列車に乗車。
時間がなかったのでなんと車内で作曲しているのです。
東海道線の国府津駅付近でやっと前奏が浮かび、伊東線に入った宇佐美駅付近でようやく曲が完成ということで、伊東市宇佐美にも『みかんの花咲く丘』歌碑があるのですが、詞が完成したのは、現在の深谷市ということに。
深谷市立深谷小学校校歌の作詞も加藤省吾が担当しています。
伊東市宇佐美の『みかんの花咲く丘』歌碑は、昭和58年11月1日に除幕、深谷市の歌碑は少し遅れて、平成4年除幕です。
『みかんの花咲く丘』歌詞
一番
みかんの花が咲いている
思い出の道丘の道
はるかに見える青い海
お船がとおく霞んでる
二番
黒い煙をはきながら
お船はどこへ行くのでしょう
波に揺られて島のかげ
汽笛がぼうと鳴りました
三番
いつか来た丘母さんと
一緒に眺めたあの島よ
今日もひとりで見ていると
やさしい母さん思われる
『みかんの花咲く丘』歌碑(深谷) | |
名称 | 『みかんの花咲く丘』歌碑(深谷)/『みかんのはなさくおか』かひ(ふかや) |
所在地 | 埼玉県深谷市本住町16-26 |
電車・バスで | JR深谷駅から徒歩15分 |
ドライブで | 関越自動車道花園ICから約10km |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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