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小手指ヶ原古戦場

小手指ヶ原古戦場

埼玉県所沢市、西武池袋線の西1.5kmほどのところ、北野小学校・北野中学校、あかねの風保育園の西にあるのが、小手指ヶ原古戦場の碑。元弘3年(1333年)、上野国(現在の群馬県)を本拠とする新田義貞軍と鎌倉幕府軍が激戦を展開した場所だと伝えられています。

新田義貞軍と鎌倉幕府軍、激戦の地

元弘3年5月8日(1333年6月20日)、新田義貞は、新田荘の生品神社(現・群馬県太田市新田市/国の史跡「新田荘遺跡」)で挙兵、5月11日(西暦6月23日)に小手指ヶ原で5月22日に北条貞国(ほうじょうさだくに=桜田貞国)を総大将とする幕府軍と激突します。
小手指ヶ原古戦場の碑が立つ脇を歩いた先には、新田義貞が源氏のシンボルである白い旗をかかげたという伝承が残る白旗塚があります。

入間川で食い止める算段でしたが、新田軍の動きが予想以上に早く、小手指ヶ原に押し寄せ、戦闘は30回を越える激戦となったのです。
新田荘を出陣する際にはわずか150騎ともいわれた新田軍ですが、進軍とともに勢力を増し、さらに武蔵国の河越館主・河越高重(かわごえたかしげ=父・河越貞重は鎌倉幕府御家人)ら武蔵七党の新田軍参戦もあって、新田軍は次第に有利となって日没を迎え、新田軍は八国山(現・東京都東村山市・東京都立八国山緑地の将軍塚)に陣を張っています。

翌、5月12日(西暦6月24日)、新田軍が久米川に布陣する幕府軍を攻撃し(久米川の戦い)、勝利。
幕府軍は多摩川の分倍河原(ぶばいがわら/現・東京都府中市)まで退却、北条泰家(得宗・北条高時の弟)を大将とする10万の幕府軍の援軍を待ち、最終決戦を迎えます(分倍河原の戦い)。
新田軍は、三浦氏一族の大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を流して油断させ、奇襲を仕掛け大勝利し、幕府軍は壊滅。
その結果、得宗・北条高時、新田義貞討伐軍を率いた北条貞国らが鎌倉・東勝寺で自害し(東勝寺跡の奧には北条高時腹切りやぐらがあります)、鎌倉幕府は滅びています(北条高時は、鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇から「徳崇大権現」という神号を下賜され、宝戒寺に祀られています)。

小手指ヶ原古戦場
名称 小手指ヶ原古戦場/こてさしがはらこせんじょう
所在地 埼玉県所沢市北野2-12-4
関連HP 所沢市公式ホームページ
電車・バスで 西武鉄道小手指駅から西武バスで誓詞橋下車、徒歩4分
ドライブで 関越自動車道所沢ICから約12km
問い合わせ 所沢市文化財保護課 TEL:04-2991-0308/FAX:04-2991-0309
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

小手指駅

埼玉県所沢市にある西武池袋線の駅が、小手指駅(こてさしえき)。当駅の北側に小手指車両基地があり、始発列車が多いのが特徴。昭和41年に開設の小手指ヶ原信号所が前身で、駅の開業は昭和45年11月20日と比較的に歴史は浅い駅です。関東地方の難読駅

生品神社

群馬県太田市にある生品神社(いくしなじんじゃ)は、平安時代に編集された『延喜式上野国神名帳』に「新田郡従三位生階明神」と記された古社で、国指定「新田荘遺跡」のひとつ。主祭神は大穴牟遅神(大国主命)。新田義貞(にったよしさだ)が鎌倉幕府倒幕の

分倍河原古戦場

東京都府中市、鎌倉と北関東を結ぶ主要道路の通称「陣街道」沿いにある古戦場が、分倍河原古戦場(ぶばいがわらこせんじょう)。元弘3年5月15日〜5月16日(1333年6月27日〜6月28日)、新田義貞率いる反鎌倉幕府軍と、北条泰家率いる鎌倉幕府

 

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