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平安女流文学『更級日記』は、市原市からの上洛の旅で始まる

更級日記

平安時代中期に、菅原道真の後裔となる貴族・菅原孝標(すがわらのたかすえ)の次女・菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が記したのが有名な『更級日記』(さらしなにっき)。その書き出しは、上総の国府(現・千葉県市原市)から京に向かう旅立ちで、道中紀行(旅日記)が前半の大部分を占めています。

平安時代の少女の旅日記としても読むことが可能

父は上総国(かずさのくに=千葉県中央部)の受領(ずりょう=朝廷から任命され、実際に現地に赴く諸国の長官)を務め、作者は父とともに上総国府に暮らしていました。
父・菅原孝標は、寛仁元年(1017年)正月24日に上総介(かずさのすけ)に任命され、任期終了を受けて寛仁4年(1020年)9月に京へと向かいます。

この時、作者の菅原孝標女は、なんと数え13歳、つまりは現在でいえば小学校6年〜中学1年生。
それでいて、『蜻蛉日記』、『紫式部日記』などと並ぶ平安女流日記文学の代表作とされるのですから、まさに天才少女だったわけです。
52歳頃の康平2年(1059年)までの40年間ほどの日記ですが、ちょうど万寿4年(1027年)に藤原道長没(直後に関東で平忠常の乱)、永承6年(1051年)、陸奥国で前九年の役と貴族的な社会が崩壊していく過程なので(実は『源氏物語』を読みふけった少女時代が平安貴族の黄金時代)、上総から京への旅はまさに夢のある旅だったのです。

書き出しは「東路(あづまぢ)の道の果てよりも、なほ奥つ方に生ひ出でたる人、いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひ始めけることにか」で、「東海道の果てよりもっと奥で育った私は、どんなにか田舎びていただろうに、どう思い始めたものか」で、上総国が「東路の道の果てよりも、なほ奥」という当時は辺境の地だったことがわかります。

「下総(しもつさ)の国のいかだといふ所に泊まりぬ」とあるので、まずは上総国から下総国に移動。
この「いかだ」は、池田(現在の千葉駅の東側、東京湾沿いに池や入江があったと推測されます)で、宿泊場所も「庵(いほ)なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくていも寝られず」という仮小屋のような粗末な場所だったようで、当時の宿泊事情がよくわかります。

さらに京を目指し「その夜は、『くろとの浜』といふ所に泊まる」で、千葉市の登戸~稲毛あたりの海岸線には砂丘が続いていたことが描写されています(「砂子遥々と白きに、松原茂りて」)。

このように、紀行文としても歴史的な価値は高く、下総と武蔵の国境を流れる太井川(太日川=古代から中世の江戸川)を渡る場面では、「ふとゐがはといふがかみの瀬、まつさとのわたりの津」に宿泊したことが記されています。
やはり宿は、風が吹き込まないように幕を引き巡らせている程度の仮小屋です(乳母などの下人はさらにひどい宿だったことも記載があります)。
この「まつさとのわたりの津」は現在の松戸と推測できるので、上総国府のあった市原を出立、松戸で1泊して武蔵(現・東京都)に入ったことがわかります。
しかも一晩中かけて舟で少しずつ荷物などを対岸に運んだとあるので、かなりの大荷物だったことがわかります。
見送りに来た人々もここで引き換えしたとあり、ここからが本格的な道中ということになります。

平安女流文学『更級日記』は、市原市からの上洛の旅で始まる
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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