円形の墳丘に比較的小さな方形の張り出し部分が付いた古墳が、帆立貝形古墳。上空から見ると(つまりは平面図を描くと)帆立貝に似ていることからその名があります。円墳に方形の造り出しが付く「円墳アレンジ型」、前方後円墳の前方部が短小化した「前方後円墳変形タイプ」がありますが、区別はつきません。
世界遺産の百舌鳥古墳群にも7基が現存
円墳に祭祀の場として造り出しを設けた「円墳アレンジ型」の代表格が奈良県北葛城郡河合町の乙女山古墳(おとめやまこふん)で、後円部径104m、墳丘長130mという巨大な古墳。
群馬県伊勢崎市の赤堀茶臼山古墳(あかぼりちゃうすやまこふん)は、昭和4年、群馬県内では最初に学術調査(帝室博物館・後藤守一の発掘調査)が行なわれた古墳ですが、前方後円墳の前方部が短小化した「前方後円墳変形タイプ」の帆立貝形古墳に類別されています。
後円部径50.2m、墳丘長62.4mで、家形埴輪8棟などが出土し、家形埴輪研究の原点となった古墳です(出土品は東京国立博物館に収蔵)。
赤堀茶臼山古墳から出土した家形埴輪は実に精巧で、ヤマト王権で埴輪生産を担当した土師部(はじべ)が埴輪製造に関わっていた可能性があります。
古墳時代の最盛期であった4世紀後半から5世紀後半にかけて築造された大王墓とその関係者の墓である百舌鳥・古市古墳群は、世界文化遺産に登録されていますが、堺市の丸保山古墳(墳丘長87m/宮内庁は仁徳天皇陵陪冢に治定)、銭塚古墳(墳丘長72m)、竜佐山古墳(墳丘長61m/宮内庁は仁徳天皇陵陪冢に治定)、収塚古墳(墳丘長58m)、旗塚古墳(墳丘長58m)、孫太夫山古墳(墳丘長56m/宮内庁は仁徳天皇陵陪冢に治定)、菰山塚古墳(墳丘長33m/宮内庁は仁徳天皇陵陪冢に治定)と百舌鳥エリアに7基の帆立貝形古墳が確認されています。
古墳時代の中期に時の大王が前方後円墳に前方部を付けることを禁止したことが原因で前方部が短小化した帆立貝形が誕生したという説があります。
古墳時代後半には前方後円墳は築かれず、方墳へと変わっていきますが、そうした過程で極端に前方部を小さく低く造った帆立貝形古墳が誕生したと推測されているのです。
前方後円墳のうち、後円部は埋葬施設の設置された墳丘で、いわゆる陵墓です。
前方部は儀式を行なう場所で、多くの前方後円墳では前方部の中心を通って石室へ至る通路があったと推測されています。
埋葬施設のみの円墳の場合は祭祀的な儀式ができる場所がないので、造り出しを設けたことで帆立貝形古墳が誕生したと考えられますが、前方後円墳の前方部はなぜ衰退して帆立貝形になったのかといえば、祭祀的な儀式が行なわれた場所とするならば、大規模な盛り土をする大土木工事をやめようという動きがあったのかもしれません。
誕生した由来は2系統あるものの、円墳部分に祭壇が付いたのが帆立貝形古墳といえるのです。
イタリアのミラノ工科大学などの研究グループの調査(Google Mapを用いて日本全国158基の前方後円墳の向きを調査)では、多くの前方後円墳で前方部が一年を通して太陽と満月に向くよう配置されていたということなので、帆立貝形も造り出し・方形部が南側に向いて築かれている可能性が大ということになります。
日本最大の帆立貝形古墳は、宮崎県西都市にある男狭穂塚古墳(おさほづかこふん/墳丘長176m)で、5世紀前半(古墳時代中期)頃の築造。
前方部はやはり南南東に向けているので、こうした方位を意識したのかもしれません。
巨大な帆立貝形古墳 TOP5
順位 | 古墳名 | 墳丘長 | 所在地 | 築造年代 |
1位 | 男狭穂塚古墳 | 176m | 宮崎県西都市 | 5世紀前半 |
2位 | 乙女山古墳 | 130m | 奈良県北葛城郡河合町 | 5世紀前半 |
3位 | 女体山古墳 | 106m | 群馬県太田市 | 5世紀中頃 |
4位 | 前塚古墳 | 94m | 大阪府高槻市 | 5世紀前半頃 |
5位 | 免鳥長山古墳 | 90.5m | 福井県福井市 | 5世紀前半 |
次点 | 宝塚2号墳 | 90m | 三重県松阪市 | 5世紀前半頃 |
上空から見ると帆立貝そっくり! 帆立貝形古墳誕生の理由とは!? | |
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