サイトアイコン ニッポン旅マガジン

【知られざるニッポン】vol.9 『知床旅情』誕生秘話(その3)

『知床旅情』の誕生にまつわる話のパート3。前回は、知床旅情の元歌が映画ロケ最終日に森繁久彌さんが即興でつくった『さらばラウスよ』だったことをお話ししました。少し長くなりましたが、賢明な読者の皆さんは、「あれれ!」とお気づきになるでしょう。なぜ、歌碑はウトロと羅臼にあるのか!?

『さらばラウスよ』と『知床旅情』は似て非なる歌?

森繁さんが即興で作った『さらばラウスよ』が元歌の『知床旅情』。加藤登紀子さんが歌って大ヒットするのは昭和46年のこと。
ふたつの歌にはほとんど違いがありませんが、大きな違いがひとつだけあります。
それは3番の歌詞。
「別れの日は来た・・」というこの歌のもっとも大事なフレーズです。
『さらばラウスよ』では、「ラウスの村にも」と続きます。
ところが、最近歌われる『知床旅情』では、「しれとこの村にも」と続き、舞台がどこであるのかはっきりしなくなっています。

「知床はひとつ」。ウトロを中心とした観光関係者は最近、こう力説します。たしかに広域観光の重要性は語るまでもありません。

『知床旅情』の碑は仲良く根室支庁側羅臼町と、網走支庁側斜里町にあるのです。斜里町関係者にいわせれば、まさに「知床はひとつ」というわけです。

「ウトロは観光地だべ。お金もあるし、有力な政治家もいる。で、森繁さんと『知床旅情』をとられちゃった」
純粋でまっすぐな羅臼の漁師はこう嘆くのです。

「君は出て行く 峠を越えて」の峠とは?

それでもあえていえば、「君は出て行く 峠を越えて」と続く、この歌詞。ウトロでは峠を越えると羅臼に来てしまいます(もちろん歌が生まれたときには知床横断道路もないので、知床峠を越えるわけにもいきませんが)。
ではではラウスの村から越える峠とは、いったいどこなのでしょうか?

答えは、羅臼峠。
今でこそ国道は改良され、くねくねもなくなりましたが、ロケ当時の昭和35年は国道もダートで、川や港を越すたびに海岸線に下り、そして山を越えというクネクネ道路でした。羅臼の中心街を去り、当時の列車の終点駅である標津に向かうと、いくつかの集落を越え、羅臼峠から羅臼の村と、知床連山を眺望したのです。国土地理院の地形図にもちゃんと羅臼峠と記載されています(下の地図参照)。

現在、国道は直線の坂道とスノーシェルターで峠をあっけなく越えてしまいますが、旧道も残されているので、これを読んで『知床旅情』に興味を持たれたなら、チャンスがあるならぜひ訪ねてみてください。

森繁さんの歌と加藤登紀子さんの歌では歌詞が違う!

『知床旅情』は、2010年7月17日に『サラバ羅臼』として誕生して50周年を迎えました。
この日は奇しくも、知床世界遺産登録5周年にあたります。
『サラバ羅臼』の誕生と、知床世界遺産登録が同じ日。
知床観光のルーツはやはり、羅臼の海とそこに暮らす人々の人情だと思えてくるのです。

余談ですが、森繁久彌さん歌う『知床旅情』と、加藤登紀子さん歌う『知床旅情』では歌詞の違いが2ヶ所あります。
実は、加藤登紀子さん、学生運動時代(昭和43年の羽田闘争直後時代)に夫となる藤本敏夫さんとの初デートで、別れの時、藤本さんが歌ったのがこの『知床旅情』だったのだとか。
しかも大胆にも森繁久彌さんの了解なく、レコーディング、歌いまくって大ヒットに。

で、異なる歌詞は、
加藤登紀子さんが歌い、一般に知られるのが、「今宵(こよい)こそ君を」(抱きしめんと)、
これに対して森繁さんのオリジナルは、「君を今宵(こよい)こそ」(抱きしめんと)。

なーるほどというわけですが、さすがに即興天才詩人の森繁さん、ちゃんと君を強調しているのです。
読み比べると、ちょっとだけだけど、大きく違うことに気がつきます。
(君を強調することで情熱がしっかりと伝わってきます!)
藤本さんが間違って覚えていたのか、加藤登紀子さんが勘違いしたのか・・。

さらに大事なもう一ヶ所が、歌詞の最後(もっとも大事な部分)。
加藤登紀子さんの歌う『知床旅情』では、3番の最後の歌詞が「私を泣かすな白いカモメよ」。
これは単に空をカモメが飛んでいる情景。
まあ、いかにも羅臼的な光景です。

森繁さんがB紙に直筆した『さらばラウスよ』の歌詞。「ラウスの村」、「白いカモメを」と記されています

これに対して森繁さんの歌では、「私を泣かすな白いカモメを」。
な、なんと、「白いカモメを」と《カモメ=羅臼に残る村人たち》という関係になっているのです。
カモメが空を飛んでいるのではありません。カモメは羅臼に残る村人たちだったのです。
実は、森繁さんも加藤登紀子さんに会った時にこの点だけは注文を付けているそうです(確認した限りではその後も加藤登紀子さんが「白いカモメを」と歌った映像はありませんでしたが・・・)。

なーるほど、カモメが羅臼の人なら、気まぐれガラスさん=森繁さん。そういう関係がしっかりと成り立ちます!

羅臼港近くのしおかぜ公園にある知床旅情歌碑にはハッキリと「白いカモメを」と

「前からなんで『カモメよ』なんだと不思議だったんですよ」
というのは旅ソムリエで、音楽にも造詣の深い板倉あつしさん。
「これで頭がスッキリしました。しかし、これ間違えたら歌の本質が崩れちゃうよね」
そうそう、冒頭に「思い出しておくれ おれたちのことを」あるじゃないですか!
この「おれたちのこと」が、「別れの日は来たラウスの村にも」に続き、「白いカモメを」(おれたち)でちゃんと結実しているわけなのです。
たしかに「これ間違えたら歌の本質が崩れちゃう」(板倉さん)。

実は、カモメ=羅臼の人、気まぐれガラスさん=森繁さん本人という構造も
『知床旅情』=羅臼の歌
という図式も崩したかった・・・といううがった見方をする人もいるのですが。

平成17年に斜里町では、『いとしき知床』を発表。斜里町民による作詞、合唱、斜里町に関係のある人によるソロの曲です。
これを第2の『知床旅情』としてPR。
しかも根室中標津空港を南知床空港にするのも、中標津周辺の町が合併して南知床市が誕生するのも斜里町は大反対!

あらら、斜里町の皆さん、「知床はひとつ」っていってたじゃないですか!

【知られざるニッポン】vol.9 『知床旅情』誕生秘話(その2)

2016年10月3日

【知られざるニッポン】vol.9 『知床旅情』誕生秘話(その1)

2016年10月3日

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了