サイトアイコン ニッポン旅マガジン

『SHOGUN 将軍』で注目の三浦按針の墓には、ホントに三浦按針が眠っていた!

三浦按針

第76回エミー賞で史上最多となる18の賞を受賞した真田広之がプロデュース・主演を務めた『SHOGUN 将軍』。ドラマ内で登場する航海士は、徳川家康が旗本に取り立てた三浦按針(ウィリアム・アダムス)がモデル。長崎県平戸市にある墓には、なんと三浦按針が眠っていた可能性が大なのです。

徳川家康(SHOGUN)に、海外の知識を伝授!

皇帝(徳川家康)の前のウィリアム・アダムス

イギリス人航海士のウィリアム・アダムス(William Adams)は、オランダの東洋遠征隊の一員として「リーフデ号」(De Liefde)に乗船。
5隻の船団で出航しましたが2隻はポルトガルやスペインに拿捕、1隻はロッテルダムに引き返し、1隻は沈没して、残された「リーフデ号」も慶長5年3月16日(1600年4月29日)に豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)の黒島に漂着。

関ヶ原合戦の半年ほど前で、五大老首座の徳川家康は引見を繰り返した後に、江戸に招き、西洋式の帆船を建造することを要請。
伊豆国伊東(静岡県伊東市)に日本で初めての造船ドックを設け、慶長12年(1607年)には120tのガレオン船「サン・ブエナ・ベントゥーラ」を造船しています。

こうした活躍で、250石取りの旗本に取り立て、三浦半島の相模国逸見(へみ/神奈川県横須賀市逸見地区)に領地を与えられ、水先案内人の按針、領地の三浦から三浦按針と名乗るようになるのです。

すでに家康は将軍職を2代・徳川秀忠に譲っていますが、駿府城で大御所政治を展開。
対外的には「国王」と見なされていたため、アダムスの協力のもとで日本とオランダとの国交を締結(アダムスの尽力でオランダ国王使節が来日し駿府城で家康に接見)。

さらにアダムスは、肥前国平戸(長崎県平戸市)を海外貿易の拠点として、オランダ商館(オランダ東インド会社日本支店)の設置に尽力、自らも平戸で暮らすようになったのです。

アダムスは、スペイン、ポルトガルは貿易を利用して、カトリックを布教、植民地にするという政策を取っていることを家康に助言、プロテスタント系の国との貿易を勧めます。
こうした事情を東インド会社から確認したイングランドも平戸に船を派遣し、アダムスを仲介人として日本との通商関係を樹立、イギリス商館(イギリス東インド会社日本支店)を平戸に設置。

長崎出島が誕生する以前は、平戸が唯一の国際貿易港となったのです。

三浦按針ことウィリアム・アダムスは、家康没後の元和6年4月24日(1620年5月26日)、故郷の土を踏むことなく平戸で没しています(帰国の願いはありましたが叶いませんでした)。

その後、平戸は、キリスト教弾圧政策でオランダ商館、イギリス商館とともに外国人墓地の破壊。
ウィリアム・アダムスの墓も伝・三浦按針墓(改葬墓)として残されるのみでした。

家康と接見するウィリアム・アダムス

平戸の墓の人骨をDNA分析、本人という可能性が高まる

復元された平戸オランダ商館

伝・三浦按針墓では昭和6年に人骨が出土しましたが、その時は埋め戻されていて、平成29年に平戸市教育委員会が伝・三浦按針墓の発掘調査を行なったところ、陶器製の壺に入った人骨が見つかったのです。

頭蓋骨、下顎骨、大腿骨、および脛骨の一部で昭和6年の報告と同じ内容でした。
昭和6年の発見時、墓坑は直方体だったので、江戸時代、西洋人あるいはキリスト教徒に限定される「伸展葬」で埋葬されていることも、三浦按針埋葬への期待となったのです。

令和3年、東邦大学医学部法医学講座の水野文月助教と黒崎久仁彦教授、産業技術総合研究所、人類学研究機構、東京大学、山形大学らの研究グループは、伝・三浦按針墓から出土した人骨のDNA分析を行なったところ、意外にも埋葬された人骨が三浦按針のものである蓋然性が高いと考える研究結果が出たのです。
雑誌『Scientific Reports』に「A biomolecular anthropological investigation of William Adams, the first SAMURAI from England」として発表、放射性炭素年代測定、炭素ならびに窒素の安定同位体比等の科学分析から人骨の出自、死亡時期、生前の食生活に関する知見を得ることができ、「三浦按針その人である可能性が高い」と結論付けたのです。

骨コラーゲンを用いた放射性炭素年代測定では、1466年〜1819年(92.0%)、1836年〜1867年(1.6%)、1925年〜1948年(2.0%)で、ミトコンドリアDNA配列からも西ヨーロッパならびに北ヨーロッパ集団の特徴が見受けられました。
さらには江戸時代の日本人の食生活に馴染んでいたことも判明したので、限りなく三浦按針に近いということがわかったのです。

三浦按針と同様の特徴を持つ別の人という可能性もありますが、三浦按針の墓と伝承される墓所に埋葬されている蓋然性がなく、ほぼ間違いなく、遺骨はウィリアム・アダムスだということに。

ちなみに領地だった横須賀市にも三浦按針の墓(安針塚)がありますが、埋葬墓ではなく供養塔で、アダムズの遺言により江戸を眺望する領地(三浦半島の高台)に建立された宝筺印塔です。

平戸市にある三浦按針の墓
『SHOGUN 将軍』で注目の三浦按針の墓には、ホントに三浦按針が眠っていた!
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

三浦按針の墓

三浦按針(みうらあんじん)、本名ウィリアム・アダムス(William Adams)は、イングランド人航海士・水先案内人。元和2年(1616年)の徳川家康没後に、平戸(現・長崎県平戸市)のイギリス東インド会社、平戸イギリス商館の仕事に従事し、

平戸オランダ商館

平戸オランダ商館は、慶長14年(1609年)に江戸幕府から貿易を許可された東インド会社(VOC)が、平戸城主・松浦隆信(まつらたかのぶ)の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点。現存する遺構はオランダ塀、オランダ井戸、埠頭、石

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了