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古墳の横穴式石室は「黄泉(よみ)の国」を表している

横穴式石室

古墳時代後半に盛んに造られるようになった横穴式石室(よこあなしきせきしつ)。有名な石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)は、巨大な花崗岩を積み上げた両袖式の石室が露頭したもの。この石室、中国の漢代に生まれ、朝鮮半島北部で発達したものですが、実は「黄泉(よみ)の国」を表しているのです。

古墳の横穴式石室は、6世紀の死生観を表す場

石舞台古墳は、横穴式石室の露頭

巨大な前方後円墳でも、小型の円墳でも土に覆われて隠されていますが、その内部には上部が開いた竪穴式石室(古墳時代前期に多い形式)、横に穴が開く横穴式石室(大陸伝来で古墳時代後期)があります。

4世紀末から5世紀初頭に北部九州で構築が始まった横穴式石室は、遺体を安置する部屋 「玄室」(げんしつ)、外に通じる通路「羨道」(せんどう)で構成され、
竪穴式石室との大きな違いは、入口の門(玄門・羨門)の開閉によって追葬が可能ということ。
家族などが没した際に、追葬して埋葬できるというメリットがあります。

つまりは、横穴式石室の普及で、従来のような土地を治めた首長だけのためではなく、数人の家族を追葬する家族墓的な性格が強まったのです。

5世紀頃に権力の象徴として巨大化した古墳は、ヤマト王権の支配地域が拡大した6世紀前半になると各地で小型の古墳が爆発的に築かれるようになり、埋葬施設として横穴式石室が採用されました。

横穴式石室は死者の生活空間としても意識されたらしく、須恵器などの生活用具も副葬されるようになりました。

横穴式が朝鮮半島から伝わったのと同時に、半島からは死生観もあわせて日本に伝来。
死者を納める場として横穴式石室を造り、死後の世界「黄泉の国」を表現したのです。
『古事記』に妻である伊邪那美命(いざなみのみこと)を追って夫・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が「黄泉の国」へ行き、実際には腐敗した妻を見るという部分がありますが、死んだら黄泉の国へ行く、黄泉の国から帰ることが「黄泉帰る」(よみがえる)は、古墳時代に生まれた半島伝来の死生観です。
和銅5年(712年)に編纂の『古事記』には「黄泉戸喫」(よもつへぐい=黄泉の国の食物を口にした者はこの世に戻ることができない)という死生観も記され、文字のなかった古代人の死生観を知る重要な手がかりとなっています。

何人もの人を葬ることができる石の部屋、そして副葬品の須恵器や土師器などの生活用具、実用的な武具、馬具の埋葬は、まさに黄泉の国の具現化だったとも推測できるのです。
さらにいえば『古事記』に記される黄泉の国の話、実はこの横穴式石室の追葬した際のむごい事実を表しているとも推測でき、横穴式石室がモデルといわれているのです。
ただし、古墳時代後期の横穴式石室から出土する骨の分析では、夫婦関係を示すようなものはなく、あくまでも親戚、、子供だったようで(例外的に欽明天皇と后は夫婦合葬)、少し『古事記』の話とは異なります。

公開されている横穴式石室に入れば、古代の人の考えた「黄泉の国」を体感できることとなります。
古墳時代の終焉とともに、仏教が普及してからは、死後の世界のイメージは「極楽浄土」と習合し、極楽への往生を願う極楽往生が普遍化していきます。

古墳の横穴式石室は「黄泉(よみ)の国」を表している
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石舞台古墳

奈良県高市郡明日香村、飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置する日本最大級の方墳が、石舞台古墳。巨大な両袖式の横穴式石室が露呈していることから、古くから石舞台と呼ばれてきました。世界文化遺産登録を目指す「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」

 

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