熟年世代の人は「夢の超特急」というと昭和39年開業の東海道新幹線を思い浮かべることでしょうが、実はそれ以前にも東海道本線には「超特急」が存在していました。それが超特急「燕」。昭和5年10月に登場した超特急「燕」は、東京駅〜神戸駅間を最高速度95 km/h、所要9時間ほどで駆け抜けています。
東京駅〜大阪駅の所要時間を2時間32分も短縮
それまでの東海道本線の花形だった特急「富士」は東京〜大阪を10時間52分、対する超特急「燕」は、8時間20分となんと所要時間を2時間32分も短縮。
まさに超特急だったのです。
ここで注意したいのは、東海道本線の全線電化が完成するのは戦後で、昭和31年のこと。
昭和5年の段階では東京駅〜 国府津駅間が電化され、通常は国府津駅で客車を牽引する機関車を電気機関車(EL)から蒸気機関車(SL)に付け替えていました。
これでは、付替えのために時間をロスするため、超特急「燕」は、C51形蒸気機関車で東京駅〜名古屋駅間を牽引、名古屋駅で梅小路機関庫配置のC51形に付け替えて神戸駅までというSLだけの運転となっていました。
丹那トンネルの完成は昭和9年12月1日なので、この超特急「燕」は、なんと現在の御殿場線を回っているのです。
丹那トンネル完成後は、東京駅〜沼津駅間は電気機関車牽引で、沼津駅でC53形蒸気機関車に付け替えていました(丹那トンネル完成後は東京駅〜大阪駅を戦前の最速である8時間で結びました)。
当時の蒸気機関車は動力源となるボイラーで消費する水が大量だったため、区間ごとに停車して水を補給する必要がありましたが、水槽車を付けることで給水停車することなく走り続けることができるようになりました。
御殿場回りの時代には、国府津駅、沼津駅で後部補助機関車をわずか30秒という神業で連結、急勾配を克服していました。
大垣駅〜関ケ原駅間の急勾配同様に30秒で補助機関車を連結して時間短縮を図っていました。
燃料に関しても、石炭は使わず、鉄道省官房研究所が燕用に開発した練炭を採用し、火力を高めています。
注目は、牽引した客車で、先頭側から、荷物車、三等2両、食堂車、二等2両、一等展望車という7両編成で、最後尾にはなんと展望車が付いていました(運賃は三等6円30銭、二等12円60銭、一等18円90銭)。
東海道本線の特急の歴史は、明治39年に新橋駅〜神戸駅を結んだ「最急行」に始まり、明治45年、東京駅〜下関駅に運転が開始された「1・2列車」が最初の特別急行列車で、この「1・2列車」は下関港を出航する外洋航路の船に連絡する国際連絡特急列車としての宅割を担っていました。
超特急「燕」の登場は、実は第一次世界大戦後の昭和恐慌(しょうわきょうこう)を克服し、旅客需要を呼び起こすために誕生した切り札です。
当時の鉄道省は、観光旅行による国内外の旅客誘致を狙っていたわけで、神戸港に上陸した外国人を東京へと運ぶ役割をも担っていたのです。
昭和初期にインバウンドを意識したのが、一等展望車の付いた「超特急」で、現在の東海道新幹線のインバウンド人気を彷彿させるものがあります。
旅客誘致を兼ねて当時の玄関港である下関とを結ぶ特急には、昭和4年9月15日に「富士」、「櫻」という日本的な愛称を付けていたので(愛称は公募されました)、さらにスピード感のある「燕」と名付けられ、しかも東京駅〜大阪駅を2時間32分という大幅なスピードアップで「超特急」を名乗ったのです。
超特急「燕」は、臨時列車も増発されるなど人気を集め、戦前の鉄道黄金期の象徴として活躍しています。
【昭和レトロな旅】 超特急「燕」が東京〜神戸を9時間で走り抜けた時代 | |
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