静岡県浜松市中区元城町、浜松城公園の東、元城町東照宮の境内に立つのが、徳川家康公・豊臣秀吉公像。元城町東照宮が鎮座する地は、戦国時代の引間城(曳馬城)の本丸跡。少年時代に仕えた松下加兵衛に連れられて木下藤吉郎(秀吉)も訪れたことで、全国に例のない家康と秀吉とのツーショット像が建立されているのです。
若き日の秀吉、浜松城を築く際の家康ゆかりの地
豊臣秀吉が織田氏の家臣になる以前、木下藤吉郎時代に仕えた人物が、松下加兵衛(松下之綱・まつしたゆきつな)で、『太閤素生記』(たいこうそせいき)には武芸・学問・兵法などを教えた恩人であることが記されています。
松下加兵衛は、天文6年(1537年)、三河国碧海郡松下郷(現・愛知県豊田市枡塚)に生誕し、その後、頭陀寺城(ずだじじょう/現・浜松市南区、頭陀寺第一公園一帯)の城主となって今川義元に仕え、その際に木下藤吉郎が仕官して、引間城(曳馬城)を訪れたということに。
『太閤素生記』によれば、まだ猿などと呼ばれていた頃、馬込川(まごめがわ)の畔で、放浪生活を送る猿(木下藤吉郎)を見つけ、松下家で武家奉公するようになったということに。
ただし、松下加兵衛と木下藤吉郎は同い年なので、もし、松下家での武家奉公が事実としても、スカウトしたのは、加兵衛の父、松下長則であった可能性が大です(しかも江戸時代に伝聞をもとにして描かれた『太閤素生記』には松下加兵衛の居城など誤記載が多数で信憑性には少し疑問符もありますが、秀吉の素生や幼少時を詳しく言及したほとんど唯一の史料です)。
もう一方の徳川家康は、永禄11年(1568年)、岡崎城から遠州へと侵攻し、引間城(曳馬城)を攻略。
その後、遠州攻略の拠点として浜松城の築城に着手し、引間城(曳馬城)はその城郭の一部に組み込まれていきます。
浜松城と改名したのは、「馬を引く」という名は縁起が悪いと感じたからともいわれています。
家康は浜松に入ってから浜松城築城するまでの間、この引間城(曳馬城)で生活したゆかりの地で、元城町東照宮は、 明治19年に旧幕臣により創建された徳川家康を祀る神社です。
徳川家康公・豊臣秀吉公像 | |
名称 | 徳川家康公・豊臣秀吉公像/とくがわいえやすこう・とよとみひでよしこうぞう |
所在地 | 静岡県浜松市中区元城町111-2 |
電車・バスで | JR浜松駅から市役所経由遠鉄バスで6分、浜松城公園入口下車、徒歩すぐ。または、遠州鉄道鉄道線遠州病院駅から徒歩13分 |
ドライブで | 東名高速道路三方原スマートICから約5km |
駐車場 | 浜松城公園駐車場(55台/1時間30分まで無料、以降有料) |
問い合わせ | 浜松市企画調整部広聴広報課 TEL:053-457-2021 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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