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下野薬師寺跡

下野薬師寺跡

栃木県下野市にある国の史跡に指定される古代寺院の跡が、下野薬師寺跡(しもつけやくしじあと)。7世紀末、下野一帯を治めていた豪族、下毛野朝臣古麻呂(しもつけぬのあそんこまろ)によって創建されたと伝えられる氏寺、薬師寺の跡です。

奈良時代、東国の中心寺院がこの地にあった!

下毛野朝臣古麻呂は、下野国河内郡を本拠地とし、天武天皇、持統天皇、文武天皇に仕えた飛鳥時代後期の公卿(くぎょう)。
文武天皇4年(700年)文武天皇から藤原不比等(ふじわらの ふひと)らとともに律令の編纂を依頼され、大宝元年(701年)、大宝律令を完成させています。

慶雲4年(707年)、文武天皇の崩御に際しては、その信任から造山陵司を務め、和銅2年(709年)に没。

下野薬師寺は、下毛野朝臣古麻呂の功労に報いて、国が造営した寺。
東国における仏教布教の拠点となった寺だと推測できます。
鑑真の来日で、僧侶と認められるのは、受戒の儀式を受けたものだけに限定されるようになりましたが、その儀式を行なう戒壇が設けられた寺は、畿内の東大寺、九州の筑紫観世音寺、そして東国の下野薬師寺という3ヶ寺だけでした(総称して「三戒壇」、あるいは天下三戒壇)。

当時の東国は、東海道の足柄峠、東山道の碓氷峠から東側、つまり現在の関東、東北一帯で、東国の国家仏教の中心として君臨したのが、この下野薬師寺だったのです(当時の僧侶は国家公務員でした)。

そんな下野薬師寺ですが、9世紀中頃に大きな火災に見舞われ、伽藍中心部を焼失。
国家仏教の衰退、天台宗など新興宗派の興隆で、独自の戒壇を置くように変化し、薬師寺も次第に廃れていったのです。

廃寺となりかけた下野薬師寺を、鎌倉時代に慈猛上人が復興、足利尊氏が全国に安国寺を建立した際には、安国寺と改称して存続ししています。
東側に建つ薬師寺(通称・下野薬師寺)が安国寺の後継寺院で、六角堂は下野薬師寺戒壇跡に建っています。

発掘調査から寺域は東西250m、南北約350mにも及び、瓦葺き回廊の規模が東西110m、南北102mという大寺院だったことが判明しています。
ガイダンス施設として「下野薬師寺歴史館」があるほか、回廊の一部が復元されています。

下野薬師寺跡
名称 下野薬師寺跡/しもつけやくしじあと
所在地 栃木県下野市薬師寺1636
関連HP 下野市公式ホームページ
電車・バスで JR自治医大駅から徒歩30分、または、タクシーで7分
ドライブで 北関東自動車道壬生ICから約12km
駐車場 下野薬師寺歴史館駐車場を利用
問い合わせ 下野薬師寺歴史館 TEL:0285-47-3121/ FAX:0285-47-3122
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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