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お見逃しなく! 『真田丸』ゆかりの徳川秀忠憩石(小諸城三の門横)

「天下分け目」といわれた関ヶ原の合戦には、実は徳川の本隊は戦闘に参加していません。徳川秀忠率いる徳川本隊は、総勢3万8000人という大軍。家康軍が東海道を進軍したのに対し、秀忠の徳川本隊を碓氷峠を越えて中山道を進みます。そして真田昌幸守る総勢2000人の軍勢に対峙するため小諸城に入ります。

弱冠21歳の徳川秀忠、小諸城に入城

関ヶ原合戦に遅刻したのにもかかわらず、2代将軍となった徳川秀忠

慶長5年(1600年)8月28日に宇都宮を出立した徳川本隊は、中山道坂本宿から碓氷峠を登り、軽井沢宿を経て、信濃追分(中山道と北国街道との分岐=追分)から小諸宿へとたどります。
こうして小諸に到着したのが9月2日のこと。当初の目的は真田征伐だったと推測できます。

大河ドラマ『真田丸』でもひとつのハイライトでもある上田決戦ですが、犬伏の別れ(『真田丸』『真田太平記』を知る! 「犬伏の別れ」の新町薬師堂(栃木県佐野市))で真田昌幸・信繁=西軍、真田信之=東軍と親子で分かちます。これを上手く利用して、真田昌幸は敵軍についた我が子、真田信之を通していったん降伏するように見せかけるなど、時間稼ぎを図ります。

こうして上田城攻略に時間を費やして、秀忠率いる徳川本隊は関ヶ原合戦に間に合わないという大失態を生んでしまったのです。

秀忠はこのとき、初陣。家康の親心というのでしょうか徳川本隊には本多忠政、本多正信、土井利勝、大久保忠佐、大久保忠隣、大久保忠常、牧野康成、奥平家昌、酒井忠世、榊原康政、成瀬正一、山口重政、仙石秀久(小諸城主)、真田信之という豪華メンバー。

上田戦争当時の小諸城主は仙石秀久。慶長2年(1597年)頃から仙石秀久は、小諸城の大改修に取り掛かっています。仙石秀久は、次期将軍と目される徳川秀忠の小諸城入城に際して信濃追分まで出迎えたと伝えられています。

「台徳院殿(徳川秀忠)九月朔日信州軽井沢に着せらる。同二日秀久その告を聞くとひとしく一騎駆けにて追分駅に至りて迎え奉る」(『改選仙石家譜』)。

大手門(城の玄関口)から入城した秀忠は、三の丸入口の三の門入口脇の石に腰掛けたとされ、その石が現存する「徳川秀忠憩石」とのことです。腰掛石ではなく、憩石と名付けられているのは、長旅の疲れをここで取り去り、二の丸に入城する前にしばし憩いの時をもったからでしょうか。

初代小諸藩主・仙石秀久
徳川秀忠憩石
名称 徳川秀忠憩石/とくがわひでただいこいいし
所在地 長野県小諸市丁311
関連HP 小諸市公式ホームページ
電車・バスで JR・しなの鉄道小諸駅から徒歩5分
ドライブで 上信越自動車道小諸ICから約3km
駐車場 小諸市営駐車場(213台/有料)
問い合わせ 小諸市観光協会 TEL:0267-22-1234/FAX:0267-25-3380
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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