サイトアイコン ニッポン旅マガジン

布勢の円山(布勢神社)

布勢の円山(布勢神社)

富山県氷見市布施の田園地帯にある小さな小山が布勢の円山で、布勢神社が鎮座しています。大伴家持(おおとものやかもち)が越中国(現在の富山県)に国守として赴任していた天平18年(746年)〜天平勝宝3年(751年)には、一帯は「布勢の水海」(ふせのみずうみ)という海で、そのなかに浮かぶ島が布勢の円山だったのです。

奈良時代には「布勢の水海」の島だった!?

布勢の円山は周囲300m、頂高20mのその名の通り円形の山。
88段の石段を上った山上には四道将軍の一人として北陸道に遠征したと伝えられる大彦命(おおびこのみこと)を祀る布施神社(平安時代編纂の『延喜式神名帳』に記載の式内社)が鎮座しています。

大伴家持は「布勢の水海」に関する「布勢の海の沖つ白波あり通ひ いや年のはに見つつ偲はむ」(『万葉集』巻17-3992)という歌も残し、境内には「大伴家持御遊覧之地」石碑も建立されています。
実はこの石碑は、享和2年(1802年)建立で、富山県内にある万葉歌碑で現存する最古の碑。
この歌は越中三賦のひとつで、「布勢の水海」を遊覧する情景を詠んだ歌。

「布勢の水海」は、氷見市南部にあった十二町潟の古称で、土砂の堆積と近世以降の干拓により消滅。
仏生寺川下流の水路は往時の海の残存。
湖光神社、十二町潟水郷公園、十二町潟排水機場などはまさに十二町潟の名残となっています。

江戸時代までは十二町潟という湖があった

氷見市朝日丘にある朝日貝塚から出土する貝殻はすべて海のものばかりなので、縄文海進(縄文時代の温暖化による海面上昇)時には一帯は海で、その後の海退(現在の海岸線より100m~200mも沖に退いていました)で氷見砂丘が発達し、十二町潟(布勢水海)は湖になったと推測できます。
平安時代には現在と同じくらいの海岸線に戻りましたが、広大な汽水湖である十二町潟(布勢水海)が広がっていいました。
その景観は現在のサロマ湖(北海道)のようだったでしょう。

江戸時代に豪農・矢崎嘉十郎が幕府に願い出て新川を掘削、明治2年に完成後、十二町潟は減少し、明治19年まで120haの田圃が生まれています。
昭和21年から国や県により潮止水門や排水機場の建設が進められ、乾田化が進み、現在の景観になったのです。

名称 布勢の円山(布勢神社)/ふせのまるやま(ふせじんじゃ)
所在地 富山県氷見市布施1826
関連HP 氷見市観光協会公式ホームページ
電車・バスで JR氷見線氷見駅からタクシーで15分
ドライブで 能越自動車道氷見ICから約5km
問い合わせ 氷見市観光交流課 TEL:0766-74-8106
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

十二町潟水郷公園

富山県氷見市にあるかつての十二町潟(じゅうにちょうがた)の面影を残す公園が十二町潟水郷公園。十二町潟排水機場裏の森辺りは乎布の浦(おふのうら)、布勢の水海(ふせのみずうみ)と呼ばれていた「萬葉布勢水海之跡」。万葉の歌人、大伴家持が越中の国守

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了