近世の和歌山城天守閣は、浅野幸長が関ヶ原の戦の軍功で紀州藩主となり入城した際、1605(慶長10)年頃、下見板張りの天守が建てられたのが始まり。1846(弘化3)年の天守曲輪の雷雨で全焼し、1850(嘉永3)年に再建。幕末で、天守閣の再建は許可されない時代でしたが、御三家ということで特別に許可されたと推測できます。
昭和33年に再建の天守は嘉永3年の姿
1619(元和5)年、初代の天守を築いた浅野幸長は、広島藩に加増転封。
2代将軍・徳川秀忠の命により、徳川頼宣(とくがわよりのぶ/徳川家康の十男)が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立し、城を大改修しています。
明治の廃城令後も1850(嘉永3)年築の再建天守は存続し、昭和10年に国宝に指定されましたが、残念ながら昭和20年7月9日の和歌山大空襲で焼失。
現在の天守群は昭和33年に原型(嘉永3年再建時の外観)に基き鉄筋コンクリートで再建されたもの。
天守は大天守と小天守が連結式に建てられ、乾櫓(いぬいやぐら)、二の門櫓と連なる連立式天守で、姫路城、松山城と並んで「日本三大連立式平山城」の一つに数えられています。
乾櫓(北西)と大天守(南東)が張り出し、城下の北東と南西から眺めた時に、天守の姿に雄大さが出る仕組みになっているのです。
天守内部は資料館、最上階は展望台になっている
天守二の門(楠門)のみ木造で復元。
天守内部は歴史資料館として往時の資料が展示されています。
最上階は展望台に。
実際、太平の世となった江戸時代に、天守はあくまで藩の威光を示すシンボル的な存在として機能し、藩主が上ることはまずありませんでした。
和歌山城の場合も藩主は虎伏山の頂上付近にあった本丸御殿、さらに山上の本丸御殿も不便ということで、山麓の二の丸御殿を政庁に使っていました。
徳川御三家を比較すると名古屋城(5層5階)、和歌山城(3層3階)、水戸城(御三階櫓)という具合で、天守にも家康が築いた尾張藩名古屋城が筆頭で次に紀州という格式が現れている点にも注目を。
幕末の1850(嘉永3)年築を模した再建天守ですが、当時の図面や絵図を元に外観を復元しています。
注目は、石落とし。
文字通り、石を落とすほかに煮え湯や汚物などを敵兵に落とすという原始的な防御施設です。
和歌山城の天守には、天守の隅部分に袴腰型の石落としが配されています。
もうひとつ、山の頂を利用した平山城に建てられた和歌山城。
天守曲輪は見事な石垣の上に建てられています。
和歌山城・天守閣 | |
名称 | 和歌山城・天守閣/わかやまじょう・てんしゅかく |
所在地 | 和歌山県和歌山市一番丁3 |
関連HP | 和歌山城公式ホームページ |
電車・バスで | JR和歌山駅から和歌山バス和歌山港方面行きで6分、公園前下車すぐ |
ドライブで | 阪和自動車道和歌山ICから約5km |
駐車場 | 和歌山城不明門駐車場(70台/有料)・和歌山市中央駐車場(577台/有料) |
問い合わせ | 和歌山城 TEL:073-422-8979/FAX:073-426-3905 |
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