和歌山県東牟婁郡太地町、熊野灘を望む風光明媚な景勝地、梶取崎の先端にあるのが、古式捕鯨梶取崎狼煙場跡(こしきほげいかんとりさきのろしばあと)。古式捕鯨発祥の地といわれる太地町ですが、鯨の潮吹きを見つけ、狼煙の伝達で、太地浦や捕鯨船に知らせたのが狼煙場です。
沖に鯨の潮吹きを見つけると狼煙を上げて知らせた地
慶長11年(1606年)、和田頼元(わだよりもと)が、尾張・師崎(もろざき/愛知県・知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州・堺(大阪府堺市)の伊右衛門の協力を得て、刺手組(さしてぐみ=銛で突いて捕る捕鯨の漁師組合)を組織。
太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨(鯨突漁)を開始し、孫の和田惣右衛門(後の覚右衛門)の時代に網で取り囲み、銛を投げて捕獲する網取式捕鯨(「網掛け銛突き取り法」)へと発展しています。
古式捕鯨では、沿海を泳ぎ、潮を吹く鯨を見つけることが重要ですが、梶取崎の先端には燈明崎とともに山見が設置され、狼煙を上げて半島基部の高塚連絡所に連絡(鯨の種類などは旗で連絡)、さらに北側の向島山見へと伝達していました。
燈明崎から梶取崎一帯の海岸段丘(大地震による隆起海岸)近くに鯨が回遊する深い海があり、波風の影響を受けにくい入江があったことも、太地の古式捕鯨が発展した要因のひとつ。
鯨は、鯨肉だけでなく鯨油も採れたことから、当時セミクジラ1頭で120両にもなり、「一頭で七郷が潤う」というほどの財源でした。
年間95頭捕獲した天和元年(1681年)には、6000両を超す莫大な利益をもたらしています。
井原西鶴の「日本永代蔵」にも檜造りの長屋に200人を超す漁師が住むと、その繁栄ぶりが記されています。
明治時代に西洋式捕鯨法が導入され、鯨の回遊も減少するにつれ太地捕鯨は衰退しますが、その後もその伝統文化を活かして小型捕鯨(イルカ漁業)が続けられています。
梶取崎の園地には、「くじら供養碑」が立ち、最終的に鯨を供養する古式捕鯨の文化を今に伝えています。
「梶取崎狼煙場跡」として、古式捕鯨高塚連絡所跡、燈明崎山見台跡などとともに日本遺産「鯨とともに生きる」の構成文化財になっています。
太地町立くじらの博物館には、古式捕鯨の様子がダイナミックに再現されているので、あわせて見学を。
古式捕鯨梶取崎狼煙場跡 | |
名称 | 古式捕鯨梶取崎狼煙場跡/こしきほげいかんとりさきのろしばあと |
所在地 | 和歌山県東牟婁郡太地町太地 |
関連HP | 太地町観光協会公式ホームページ |
ドライブで | 阪和自動車道南紀田辺ICから約90km |
駐車場 | あり/無料 |
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