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大石田河岸跡

大石田河岸跡

山形県北村山郡大石田町にある最上川舟運で栄えた川湊の跡が大石田河岸跡(おおいしだかしあと)。古代水駅が置かれ、戦国時代に最上義光(よしみつ)の最上川三難所の開削によって発展した、大石田の川湊(河岸)。最上氏(もがみし)は船着き場を整備するだけでなく、町造りにも着手し、道路の整備も行なっています。

最上川舟運の中核地として繁栄した川湊の跡

最上氏の川湊と商業地の整備を契機に大石田は最上川舟運の中核地となり、明治時代まで隆盛しましたが、もっとも繁栄したといわれるのが、元禄時代。
当時、最上川上流の置賜(おきたま)地方まで開削が進んだことにより、幕府の天領米(村山地域の大部分は北日本一の広の天領)をはじめ、米沢藩の年貢米や村山地方特産の紅花、青苧、大豆などの輸送量が増加。
これを大石田で積み替え、酒田まで運んでいたため、大石田が最大の中継地となったのです。
寛文12年(1672年)、江戸の商人・河村瑞賢(かわむらずいけん)が幕府の命を受けて西廻り海運(北前船)を確立すると、酒田湊(現・酒田港)は日本海随一の活況をみせますが、この西廻り航路の開設の背景には、最上川の舟運を利用した天領米の出荷があったと推測できます。

元禄年間に最上川を就航していた舟は、大石田舟290隻、酒田舟250隻余を数え(大石田舟は4日〜5日を費やして酒田に下り荷を運び、酒田舟は酒田から14日〜15日かけて上り荷を輸送)、積み出した米は24万俵に及んでいます。
寛政4年(1792年)には大石田に川舟役所が設置されています。

明治5年に大石田の川舟役所が廃止されると、徐々にその機能が失われていき、明治34年、大石田まで鉄道が開通し(奥羽南線山形駅〜大石田駅間開通)、その後、大正3年に陸羽西線が酒田まで開通すると最上川舟運は役割を終えています。

かつて河岸(川湊)としてにぎわった姿は、松尾芭蕉や斎藤茂吉などの文化人の滞在、そして、慶長元年(1596年)、大石田の町の整備とともに創建した乗舩寺、曹洞宗の古刹・向川寺、最上川舟運の名残である常夜灯のある西光寺、延沢城の裏門を山門として移築した浄願寺など周辺の寺社などにその歴史が刻まれています。

河岸(川湊)のあった最上川は、洪水防止のために両岸に合計2.1kmの特殊堤防が整備されましたが、大石田大橋下流右岸(上流から見て右岸)602mに白壁の堤防壁画(塀蔵を描いた壁画)を築き、舟役所などへの出入口の大門を再現。
往時の雰囲気を醸し出しています。

名称 大石田河岸跡/おおいしだかしあと
所在地 山形県北村山郡大石田町大石田
ドライブで 尾花沢新庄道路新庄ICから約3.7km
駐車場 最上川畔の駐車スペースを利用
問い合わせ 大石田町産業振興課商工観光グループ TEL:0237-35-2111/FAX:0237-35-2118
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

大石田舟役所跡(大門・塀蔵)

最上川舟運の河湊が置かれた山形県大石田町。最上川の河岸(かし=川湊)として本格的に機能を果たすようになるのは近世から。幕府の天領米(村上地方は北日本最大の天領でした)、紅花などの輸送拡大に伴って、寛政4年(1792年)、幕府直轄の大石田舟役

最上川

山形県米沢市にそびえる西吾妻山(2035m)北面、火焔滝(ひのほえのだき)を源流に、山形県を北上し、酒田市で日本海に注ぐ長大な河川が最上川(もがみがわ)。幹川流路延長は229kmで、木曽川と並んで日本第7位、流域面積7040平方キロは日本第

 

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