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吾妻神社『馬だし祭り』|富津市|2024

2024年9月15日(日)、千葉県富津市の吾妻神社で『馬だし祭り』。日本武尊の身代わりとして、走水に入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)の遺品を祀ったのが始まりと伝わる古社、吾妻神社。『馬だし祭り』は、神社の神霊を馬上に移して、若者が馬の手綱をつかみ砂浜を駆け回る勇壮な神事です。

神馬の鞍に神霊である幣束をつけ海岸を疾走

五穀豊穣や海上の安全、大漁を祈願する古い祭りの形態を今に残す神事として、千葉県の無形民俗文化財いも指定。
岩瀬海岸(夏は大貫中央海水浴場となる浜)で「馬だし」神事が行なわれるところから『馬だし祭り』と呼ばれ、毎年大勢の見物客で賑わいます。
「馬だし」神事に使われる「オメシ」(神馬)は、神事の7日前から毎朝海水で洗って「垢離とり」(こりとり)をし、祭礼に備えます。

当日朝、拝殿で宮司のお祓いを受けて神輿(みこし)の担ぎ出しが始まると、「オメシ」(神馬)は、神輿(みこし)に先立って神社から下山します。
途中、何度か休憩しながら岩瀬海岸まで赴き、「馬だし」が行なわれます。

「馬だし」では、「オメシ」と呼ぶ神馬の鞍に神霊である幣束(へいそく)を付け、2人の青年が手綱を手にして、馬の両脇にしがみついて砂浜を疾走。
海岸を疾走した後、弟橘媛(おとたちばなひめ)の遺品の漂着地と伝える地点に着くと背の御幣をおろし、その地に埋納します。
何度も海岸を疾走した後、還御の途に就き、夕方には神社に帰山します。

神馬が海岸を後にすると、ほどなく神輿渡御の一行が海岸に到着し、神輿が海に入るオハマデ(お浜出)の後、祭場に安置されて祭典が斎行。

「馬だし」神事に使われる正神馬装具(白羽二重絹地製厚布団風ミクラ等21点)、副神馬装具(ミクラ布団など23点)、神馬の幣2座、神馬を描いた絵馬2面は、千葉県の文化財に指定。

東京湾各地に残る弟橘媛の入水伝承

日本武尊が東征の折、現在の東京湾を渡る際に海が荒れて渡ることができません。その際、妃である弟橘媛(おとたちばなひめ)は、海神の怒りを解き海を鎮めるために自ら走水(現・横須賀市走水)の海に入水し、命を絶ちました。

弟橘媛の遺品は、対岸の岩瀬の布引きの浜(現・富津市)に打ち上げられ、どこからともなく一頭の馬が出現。弟橘媛の遺品をくわえると、吾妻神社に上っていったと伝えられています。

馬だし祭においても、かつては対岸の横須賀市の走水神社(祭神は弟橘媛)の氏子が海岸に出てお浜降りの提灯を望見し「上総の吾妻様がお立ち帰り」といって遙拝するのが習わしだったとか。東京湾を隔てた2つの神社に残る弟橘媛の伝承というわけです。また東京湾では、弟橘媛の袖が流れ着いたのが袖ヶ浦ともいわれています。

弟橘媛の伝説と祭神とする神社は上総国には数多いのですが、富津の吾妻神社はそれを代表する社。
吉野郷といわれた、上・近藤・八田沼・絹・西大和田・中・岩瀬の旧7ヶ村の鎮守。五穀豊穣・海の安全・大漁祈願の祭礼でもあります。

『日本書紀』によれば、東国遠征の帰途、日本武尊は碓氷嶺(長野県・群馬県県境の碓氷峠)の頂に立った際、弟橘媛を偲んで、「吾妻(あづま)はや」と嘆いたとされています。これが吾妻の由来で、関東周辺を「あづま」と呼ぶのはこの故事に由来するとも。
群馬県には吾妻郡、嬬恋村などそれを裏付ける地名も残されていますが、『古事記』には「吾妻はや」と嘆いたのは碓氷嶺ではなく、足柄峠下の坂本とされています。

旧碓氷峠の群馬側に鎮座する熊野神社の境内にある吾嬬者耶(あずまはや)詠嘆の地碑
吾妻神社 馬だし祭り|2024
開催日時2024年9月15日(日)岩瀬海岸神馬疾走 14:30~16:30/毎年敬老の日の前日
所在地千葉県富津市西大和田98
場所吾妻神社、岩瀬海岸
関連HP富津市公式ホームページ
電車・バスでJR大貫駅から徒歩10分で岩瀬海岸。徒歩30分で吾妻神社
ドライブで館山自動車道富津中央ICから約6km
問い合わせ富津市商工観光課 TEL:0439-80-1291
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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