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高野長英の隠れ家

高野長英の隠れ家

愛媛県西予市宇和町卯之町にある史跡が、高野長英の隠れ家。天保10年(1839年)、高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したことで伝馬町牢屋敷に収監(蛮社の獄)されますが、脱獄して宇和島藩に匿われ、卯之町で隠棲した際の家の2階部分が現存。

脱獄逃亡中の高野長英が身を隠した家

幕府批判を続けた高野長英は投獄されますが、火事に乗じて伝馬町牢屋敷を脱獄。
その後、嘉永元年(1848年)、鳴滝塾時代の友人である二宮敬作の手引きで伊予宇和島藩主・伊達宗城に庇護されています。

当初は宇和島城下の宇和島藩家老・桜田佐渡別邸に暮らし、藩士子弟の教育や久良砲台(愛南町久良)の構築などを行なっています。
その後、桜田別邸が幕府に探知されたという話から嘉永2年(1849年)に二宮敬作を頼って卯之町に隠棲しています。

二宮敬作は、伊予国宇和郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれ、長崎留学後、シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学んでいます。
シーボルト事件に連座し、投獄されていますが、シーボルトの帰国後に娘・イネの養育を託され、天保元年(1833年)にイネとともに卯之町で医院を開業。
時の藩主、伊達宗城(だてむねなり/墓所は宇和島の等覚寺)は開明派で、高野長英、さらに長州より村田蔵六(大村益次郎)を招き、軍制の近代化に着手しています。
高野長英が暮らした卯之町の隠れ家は、1階に6畳と3畳、2階に4畳半、階段は3畳の間にありましたが、平屋建に改築され(2階部分だけが現存)、愛媛県の史跡に指定。

二宮敬作などの業績は、宇和先哲記念館で詳しく解説されています。

蛮社の獄とは!?

天保8年(1837年)、遭難した日本の船員がマカオからアメリカ船モリソン号に乗船し、浦賀に接近しますが、異国船打払令によって砲撃を受けて退散。
薩摩に上陸して城代家老・島津久風と交渉しますが、オランダ船に託すように説得します(モリソン号側にはあわよくば日本と通商を開こうという目論見がありました)。
高野長英はモリソン号事件での幕府の対応ぶりから、欧米列強との衝突を危惧して『戊戌夢物語』(ぼじゅつゆめものがたり)を出版します。
それに対して、幕府は、高野長英、渡辺崋山など開明派を捕縛、主犯格の高野長英は、永牢(終身刑)、渡辺崋山は幕政批判のかどで、三河国・田原で蟄居を命じられています。

渡辺崋山は、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)に自刃。
高野長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄、宇和島藩に匿われた後に江戸に戻り、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)10月30日、江戸で奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されています。

高野長英の隠れ家
名称 高野長英の隠れ家/たかのちょうえいのかくれが
所在地 愛媛県西予市宇和町卯之町3-239
関連HP 西予市公式ホームページ
電車・バスで JR卯之町駅から徒歩5分
ドライブで 松山自動車道西予宇和ICから約1.5km
駐車場 市営駐車場(350台/無料、西予市宇和文化会館)
問い合わせ 西予市スポーツ・文化課 TEL:0894-62-6416/FAX:0894-62-6591
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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