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四間道

名古屋駅と名古屋城の間、四間道(しけみち)と呼ばれる道沿いに土蔵や町屋が軒を連ねる一角があります。名古屋城築城に伴い、それまでの尾張の中心地であった清洲から城下町機能の全てが移転し(「清洲越し」のと呼ばれる城下町の移転)、清洲商人によって、堀川沿いに水運を利用する商家の街並みが形成されました。

堀川の舟運で繁栄した土蔵群と町家が城下町の面影を残す!

四間道地区の商家群
漆喰白壁の土蔵群

四間道は、城下移転の「清洲越し」での城下町成立時には、城下町(堀川沿いの商人地)とその西側の農村地の境界をなしていた道です。
城下移転と、名古屋城の築城の物資運搬のための堀川開削、さらには堀川による舟運によって商業地へと発展します。
四間道以西の農村地帯(現在の名古屋駅方面)も、江戸時代を通して徐々に開発され、城下町に吸収されていったのです。

1700(元禄13)年に大火があり、防火の目的や商業活動のため、道幅を4間(約7m)に広げたことにより、四間道という名が付きました。
昭和61年に、名古屋市により「町並み保存地区」の第3号に指定。

四間道の一本東側(堀川運河側)に並走する大船町通沿いには、堀川の水運を利用した商業活動に使われた土蔵(名古屋城と城下へ米穀、塩、味噌、酒、薪炭を供給)や商家が建ち並び、四間道地区の代表的な景観となっています。

清洲越し
1612(慶長17)年頃〜1616(元和2)年に行なわれた、名古屋城の築城に伴う城下町の移転。徳川家康は、交通の要衝で、竹千代と呼ばれた幼少時代を過ごした那古野城を天下普請(てんかふしん)で大改築し(名古屋城築城)、かつて信長の居城だった清洲城の城下町を町ごと名古屋へ移すという「清洲越し」の大プロジェクトを考案します。
同時期には江戸の町も整備が進んでいるので、家康の辣腕(らつわん)ぶりがよくわかります。
神社・仏閣も社寺3社110寺、清洲城下の町家2700戸のほとんどが移転しています。
この清洲越しを提案したのが家康配下の山下氏勝(やましたうじかつ)です。

子守地蔵尊と屋根神さまに注目を!

四間道地区の一画に祀られた子守地蔵尊
1階の屋根部分に祀られる屋根神さま

路地奥に祀られた子守地蔵尊や、屋根に配された屋根神(屋根の上に祭られた祠)が特長的です。
散策されるなら、この点にぜひ注目を!
屋根神様は、津島信仰(天王信仰)の津島神社、火伏せの秋葉信仰の秋葉神社、そして熱田神宮の3社を祀っています。
疫病や火災からその家を守るという名古屋、岐阜地方の古き町家に残される独特の風習です。

堀川に架かる中橋の西側にある浅間神社は、江戸時代に栄えた富士講(富士山信仰)を今に伝えるもので、『尾張名所図会』にも中橋裏浅間社として描かれています。

名古屋の地名のルーツは名古屋城から名古屋駅にかけての一帯が那古野(なごの)と呼ばれていたことに由来するのです。
信長が生まれたのも尾張国那古野。信長時代の城も那古野城です。

『尾張名所図会』中橋裏浅間社
名古屋市の町並み保存地区
城下町である名古屋市町並み保存要綱による「町並み保存地区」の第3号に指定された四間道地区(2.8ha)ですが、他の指定地区は第1号の有松地区(ありまつちく=緑区/19.5ha)、そして白壁・主税・橦木地区(しらかべ・ちから・しゅもくちく=東区/14.3ha)、中小田井地区(なかおたいちく=西区/2.8ha)で合計4ヶ所です。
四間道
名称 四間道/しけみち
所在地 愛知県名古屋市中村区那古野
電車・バスで 地下鉄鶴舞線・桜通線丸の内駅から徒歩10分。または地下鉄桜通線国際センター駅から徒歩10分
ドライブで 名古屋高速都心環状線錦橋ランプから約1km
駐車場 なし
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

円頓寺商店街

2023年2月12日

中小田井の町並み

2021年2月14日

 

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