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井田城

井田城

愛知県岡崎市井田町にあった中世の城が井田城。徳川家康生誕の岡崎城と、徳川家(松平家)の菩提寺・大樹寺(だいじゅじ )を結ぶ線の中間という、重要な位置にあり、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)のひとり、酒井忠次生誕の城となっています。

家康第一の功臣、酒井忠次生誕の城

酒井氏の出自は定かでありませんが(三河、尾張国境の境川沿いに酒井神社があることから、境が酒井に転じたとも推測できます)、井田城には酒井氏忠(酒井広親の子)から酒井忠勝、酒井康忠、酒井忠親、酒井忠次と酒井氏5代にわたる居城となっています。

酒井忠次は、大永7年(1527年)、井田城で生誕。
竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く際にも、同行する近臣(家康よりも15歳年上)で、永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの後、今川家の人質から開放された際に、家老に。
その後、家康の主な戦いにはすべて参戦し、天正16年(1588年)、長男・酒井家次に家督を譲って隠居するまで、家康に仕えています。
天正16年(1588)、62歳で家督を嫡男・家次に譲り、京・桜井屋敷(徳川家康が秀吉に「臣下の礼」を取るために聚楽第に上った際、豊臣秀吉から拝領したという屋敷/現・京都市上京区、首途八幡宮周辺)に隠居し、知恩院境内には菩提寺として先求院(せんぐいん)を建立。
晩年は眼病を患い、慶長元年10月28日(1596年12月17日)、桜井屋敷で亡くなっています(墓は知恩院の墓地)。

井田城は、空堀と土塁に囲まれた方形という中世的な居館ですが、遺構はなく、城山公園として整備されています。
周辺は市街化され、三河譜代でも筆頭だった酒井氏の城というイメージを掴むことはできません。

ちなみに三河国碧海郡酒井郷(現在の刈谷市など境川の東側)、幡豆郡坂井郷の在地領主だった酒井氏には、雅楽頭家(うたのかみけ)と左衛門尉家(さえもんのじょうけ)の2系統があり、井田城主の酒井家は、左衛門尉酒井家。
酒井忠次の孫・酒井忠勝の時代に、出羽庄内藩の藩主となっています。

対する雅楽頭家は、松平家の三河統一の過程で西尾城主(現・西尾市)となり、酒井忠世(前橋藩主/子孫は姫路藩15万石の藩主)、酒井忠績(姫路藩主)、酒井忠勝 (小浜藩主)など大老を多く生み出し、徳川幕府筆頭の重臣になっています。

幕府の史書でもある『柳営秘鑑』には、酒井家の家紋「剣片喰」(けんかたばみ)をもとに徳川家の家紋「三つ葉葵」が考案されたと記されています。

井田城
名称 井田城/いだじょう
所在地 愛知県岡崎市井田町城山
電車・バスで 愛知環状鉄道北岡崎駅から徒歩15分、大門駅から徒歩20分
ドライブで 東名高速道路岡崎ICから約5.5km
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

岡崎城

岡崎城(愛知県岡崎市)は、徳川家康が出生した城として有名。天守は明治時代に取り壊され、現在の天守は、昭和34年の再建で、1617年(元和3)に本多忠利が再建したものをモデルとしたもの。2〜4階は、江戸時代の岡崎を紹介する資料館として公開され

大樹寺

松平4代の松平親忠(安祥城主)が、1475(文明7)年に創建した寺で、松平家(のちの徳川将軍家)の菩提寺。桶狭間(おけはざま)の合戦で今川義元が敗れたとき、大高城から松平元康(徳川家康)が逃げ帰ったのがこの大樹寺です。先祖の墓前で自害しよう

徳川四天王とは!?

四天王とは、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天という具合に仏法僧を守護している四神のこと。転じて徳川四天王は、仏法守護の四神のように、徳川家康を守り、徳川幕府を開くまでに尽力した酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政のことです。

 

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