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馬場美濃守信房の墓

馬場美濃守信房の墓

愛知県新城市長篠、豊川を渡る国道257号・長篠大橋近くにあるのが、馬場美濃守信房の墓。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた武田家重臣・馬場信春(ばばのぶはる=馬場信房)は、長篠の戦いで退却を進言するも聞き入れられず、戦で劣勢になった際、退却の殿(しんがり)を務めて討ち死にしています。

武田家の重臣・馬場信春の首塚

信長旧臣の太田牛一が江戸時代初期に記した『信長公記』(しんちょうこうき)にも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評された最期を遂げていますが、その戦士した場所は墓のある場所とは異なり、長篠堰堤に近い新城市出沢の旧伊那街道沿い(豊川の西岸)です。

馬場美濃守信房の墓は、馬場美濃守信房の首を埋葬した場所(首塚)と伝えられています。
殿戦忠死の碑(明治24年建立/高さ1m1cm)と自然石の墓石(高さ1m40cm)があり、明治24年の墓碑建立工事の際、墓石の下から数片の骨片と素焼の皿2枚が出土しています。
また墓碑の裏には「是より半丁西 馬場墳」と記された標石もあり、往時から馬場信春ファンが訪れていたことがよくわかります。

佐野知尭(さのともたか)が元文5年(1740年)に記した三河地方の地誌『三河国二葉松』(みかわのくにふたばのまつ)には「長篠村在武田臣馬場美濃守信房墓、於出沢之沢尻討死、頚を埋めるここ長篠橋場近所、此所元禄年間ニ成畑石塔ノミ有此処今」と記され、戦没地と墓地の裏付けになっています。

馬場美濃守信房の墓の近くには、中央構造線長篠露頭(ちゅうおうこうぞうせんながしのろとう)もるのであわせて見学を。
長篠の戦いにおける武田勝頼の本陣が置かれたのは、馬場美濃守信房の墓の北、医王寺です。

ちなみに、長篠の戦いの武田方戦死者のうち、名の知れた将士は50余名にのぼりますが、墓碑があるのは14基にすぎず、しかも戦死の場所と墓地が残されているのは、ともに重臣で早くから退却を進言していた馬場信春と土屋昌次のふたりだけです。

馬場美濃守信房の墓
名称 馬場美濃守信房の墓/ばばみののかみのぶふさのはか
所在地 愛知県新城市長篠西野々51-1
関連HP 奥三河観光協議会公式ホームページ
電車・バスで JR長篠城駅・鳥居駅から徒歩15分
ドライブで 新東名高速道路新城ICから約3km
問い合わせ 長篠城址史跡保存館 TEL:0536-32-0162
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

中央構造線長篠露頭(新城市)

愛知県新城市長篠、豊川を渡る国道257号・長篠大橋下流側にあるのが、中央構造線長篠露頭(ちゅうおうこうぞうせんながしのろとう)。豊川・宇連川沿い中央構造線が走っており、新城市内では長篠、桜淵公園、向林、細川などで観察することができます。内帯

馬場美濃守戦死の地

愛知県新城市出沢、長篠堰堤に近い旧伊那街道沿い(豊川の西岸)にあるのが、馬場美濃守戦死の地。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた武田家重臣・馬場信春(ばばのぶはる)は、長篠の戦いで退却を進言するも聞き入れられず、戦で劣勢になった際、退却の

長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡(医王寺)

愛知県新城市長篠、曹洞宗の寺・医王寺一帯が、長篠設楽原古戦場・武田勝頼本陣跡。天正3年(1575年)の長篠の戦いの際、医王寺の裏山に武田勝頼は本陣を置いています。丘陵の先端部で比高が30mほどある天然の要害で、長篠城包囲における武田軍の各陣

 

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