馬場美濃守戦死の地

馬場美濃守戦死の地

愛知県新城市出沢、長篠堰堤に近い旧伊那街道沿い(豊川の西岸)にあるのが、馬場美濃守戦死の地。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた武田家重臣・馬場信春(ばばのぶはる)は、長篠の戦いで退却を進言するも聞き入れられず、戦で劣勢になった際、退却の殿(しんがり)を務めて討ち死にしています。

「不死身の馬場美濃」の最期の地

天正3年5月21日(1575年6月29日)、退却する武田勝頼軍の殿(しんがり)を務め、豊川沿いの狭隘(きょうあい)な地形を利用して、数百の手勢で奮戦。
主である武田勝頼の姿が見えなくなるまで連合軍の大軍をよく阻み、織田家家臣原田直政の配下、河井三十郎(『松平記』)に討ち取られたとも、織田信長の感状から岡三郎左衛門が討ち取ったとも、自ら名乗って「首をはねて手柄とせい」と首を差し出した(『甲陽軍艦』)とも伝わっています。

70回を越える戦闘に参加し、かすり傷ひとつ負わなかった「不死身の馬場美濃」もついに長篠の戦いで討ち死にしたのです。

信長旧臣の太田牛一が江戸時代初期に記した『信長公記』(しんちょうこうき)にも「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評された最期を遂げ、その首が現在の国道257号・長篠大橋近くに埋葬され、馬場美濃守信房の墓として残されています。

佐野知尭(さのともたか=江戸時代の郷土史家)が元文5年(1740年)に記した三河地方の地誌『三河国二葉松』(みかわのくにふたばのまつ)にはには「長篠村在武田臣馬場美濃守信房墓、於出沢之沢尻討死、頚を埋めるここ長篠橋場近所、此所元禄年間ニ成畑石塔ノミ有此処今」と記され、戦没地と墓地の裏付けになっています。

長篠の戦いにおける武田勝頼の本陣が置かれたのは、馬場美濃守信房の墓の北、医王寺です。

ちなみに、長篠の戦いの武田方戦死者のうち、名の知れた将士は50余名にのぼりますが、墓碑があるのは14基にすぎず、しかも戦死の場所と墓地が残されているるのは、ともに重臣で早くから退却を進言していた馬場信春と土屋昌次のふたりだけ。

馬場美濃守戦死の地
名称 馬場美濃守戦死の地/ばばみののかみせんしのち
所在地 愛知県新城市出沢
関連HP 奥三河観光協議会公式ホームページ
ドライブで 新東名高速道路新城ICから約5km
駐車場 1台/無料
問い合わせ 設楽原歴史資料館 TEL:0536-22-0673
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
馬場美濃守信房の墓

馬場美濃守信房の墓

愛知県新城市長篠、豊川を渡る国道257号・長篠大橋近くにあるのが、馬場美濃守信房の墓。武田信虎、信玄、勝頼の三代に渡り仕えた武田家重臣・馬場信春(ばばのぶはる=馬場信房)は、長篠の戦いで退却を進言するも聞き入れられず、戦で劣勢になった際、退

 

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