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甘泉寺・鳥居強右衛門の墓

甘泉寺・鳥居強右衛門の墓

愛知県新城市作手にある臨済宗の寺が、甘泉寺。応安3年(1370年)、三河を行脚した弥天永釈(みてんえいしゃく)が創建したと伝えられる古刹で、境内には樹齢600年以上という高野槇の巨木(国の天然記念物)、そして鳥居強右衛門の墓(とりいすねえもんのはか)があります。

鳥居強右衛門は、妻の実家があった作手に埋葬

奥平信昌(おくだいらのぶまさ=長篠の戦い当時は奥平貞昌で、長篠の戦いで武田勝頼に離反、貞昌は長篠城に籠城し、鳥居強右衛門に命じて岡崎城に援軍を要請)の家臣だった鳥居強右衛門は、武田軍が包囲する長篠城から脱出し岡崎城へと援軍を要請に走り、その帰路、武田軍に見つかり磔(はりつけ)となっています。

後世に「三河武士の鑑」として伝えられ、長篠の戦いのハイライトシーンなどとして、テレビドラマでもよく見かける鳥居強右衛門。
「援軍は来ない。諦めて城を開け」と叫べば助命すると武田軍から嘘を伝えるように強要されますが、鳥居強右衛門は承諾するように見せかけながら「あと二、三日で、数万の大軍が救援にやってくる。それまで持ち堪えよ」と籠城軍に知らせ、磔死。

亡骸は慶長8年(1603年)、奥平氏により作手(新城市作手鴨ケ谷)の甘泉寺に移され、墓が築かれています(一説には織田信長が作手に建立したとも)。
作手村市場郷は鳥居強右衛門の妻の出身地ということで、作手に墓が築かれたのだと推測できます。

その後、新昌寺(現・新城市作手)にも宝暦13年(1763年)に墓が建立され、現在墓は2ヶ所あります。

鳥居強右衛門の子孫は桑名藩(現・三重県)、忍藩(現・埼玉県)・奥平松平家(奥平信昌の四男、松平忠明が祖)の家老として存続しています。
ちなみに、戦前は、強右衛門の命を賭して主君への忠義を尽くした行為としてとして『尋常小学国語読本』にも載り、映画『鳥居強右衛門』(昭和17年)も上映され、忠君愛国教育に利用されたこともありました。

甘泉寺・鳥居強右衛門の墓
名称 甘泉寺・鳥居強右衛門の墓/かんせんじ・とりいすねえもんのはか
所在地 愛知県新城市作手鴨ケ谷門前23
関連HP 奥三河観光協議会公式ホームページ
ドライブで 新東名高速道路新城ICから約24km
駐車場 あり/無料
問い合わせ 甘泉寺 TEL:0536-37-2337
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

鳥居強右衛門磔死之碑

愛知県新城市、長篠城(ながしのじょう)を眼前にする有海原の篠場野に立つ碑が鳥居強右衛門磔死之碑(とりいすねえもんたくしのひ)。長篠の戦いの際、徳川家康(岡崎城)への救援要請という重要な使命を負って豊川を泳ぎ下って長篠城の包囲網突破に成功した

新昌寺・鳥居強右衛門の墓

愛知県新城市有海稲場にある曹洞宗の寺、新昌寺。境内には長篠の合戦で非業の死を遂げた鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の墓があります。武田軍が包囲する長篠城から脱出し岡崎城へと援軍を要請に走り、その帰路、武田軍に見つかり磔死(たくし)したのが鳥

長篠城

長篠城(ながしのじょう)は、今川氏親の家臣、菅沼元成が1508(永正5)年に築いた城。1575(天正3)年の長篠の戦いで、時の城主・奥平貞昌(おくだいらさだまさ=奥平信昌)がわずか500の兵で籠城し、1万5000という大軍を擁した武田勝頼の

 

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