愛知県蒲郡市神ノ郷町、国道23号蒲郡バイパス・蒲郡ICの南西にあるのが、上ノ郷城。戦国時代、鵜殿氏の城跡で、鵜殿氏は現在の蒲郡市内に上ノ郷城、下ノ郷城、不相城(ふそうじょう)、柏原城を築き、一帯を支配していましたが、永禄5年(1562年)、松平元康(徳川家康)に攻略されています。
松平元康(徳川家康)が攻略した今川方・鵜殿氏の居城
中世の城館のため、土塁と空壕で構成される簡易な城で、もちろん天守などもなく、建築物は櫓的なものと居館だったと推測できます。
城の東側を取り囲むように屈曲して流れる兼京川(かねきょうがわ)はその流路を人為的に変更し、濠としており、防御的な機能を高めています。
西南にある熊ヶ池も往時には濠として機能したと伝承されています。
永禄5年(1562年)、三河統一を目指す松平元康(徳川家康)は、名取山に陣を構え、上ノ郷城の鵜殿長照(うどのながてる)を攻め落としています。
その城攻めでは、忍者が上ノ郷城内に忍び込んで火をつけ、城中が混乱したところを攻め落としたと伝えられ、家康の忍者使いの最初ともいわれています。
主郭と土塁はその形状が保たれ、主郭部分からは三河湾が一望できることから、鵜殿氏は一帯の舟運も掌握していたのだと推測できます。
初代の鵜殿長善は、15世紀(室町時代)、紀伊半島の熊野地方から海を渡って三河国の海岸部を領有したと伝えられ、長善以降に長将、長持、長照と4代にわたってこの地を領有し、鵜殿長持は、駿河国の今川家の配下で、今川義元の妹を妻にしています。
その今川家の人質から永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)後に開放された松平元康によって、上ノ郷城主・鵜殿長照は滅ぼされています(上ノ郷城の鵜殿家は滅亡しましたが、下ノ郷城の鵜殿家は松平元康に仕えることで生き残りを図り、さらに不相城、柏原城の鵜殿家も後に松平氏に仕え、存続しています)。
鵜殿長照の子供2人は、捕虜となり岡崎城へと連れられますが、今川方との交渉で駿河で捕らわれの身だった松平元康の正妻・築山殿、元康の長男・松平信康と人質交換で自由の身になっています(今川家滅亡後には家康の家臣に)。
周囲を山に囲まれた蒲郡は、守備をしやすい地形ですが、三河湾を抱えることから、松平氏(徳川家康)にとっても重要な地で、現・蒲郡市の形原城、竹谷城、五井城と幸田町の深溝城(ふこうずじょう)は松平方の城で、今川方と対峙したのです。
鵜殿長照が攻城戦に敗れ、落城した上ノ郷城には久松俊勝(ひさまつとしかつ=徳川家康の生母・於大の方の再婚相手/『どうする家康』ではリリー・フランキーが好演)が入っているので、家康にとってこの地の重要性がよくわかります。
天正18年(1590年)、徳川家康の関東移封で久松氏も関東に移動し、上ノ郷城は廃城になっています。
上ノ郷城 | |
名称 | 上ノ郷城/かみのごうじょう |
所在地 | 愛知県蒲郡市神ノ郷町城山 |
関連HP | 蒲郡市公式ホームページ |
ドライブで | 東名高速道路音羽蒲郡ICから約9km。蒲郡バイパス蒲郡ICから約2km |
駐車場 | 赤日子神社駐車場(5台/無料)、神社の行事等が行なわれる場合は使用不可 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
最新情報をお届けします
Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!
Follow @tabi_mag