深溝城

深溝城

愛知県額田郡幸田町にある戦国時代から江戸時代初期の城跡が、深溝城(ふこうずじょう)。築城年代は定かでありませんが、戦国時代には松平氏の前線として、吉良氏(きらし)、今川方の鵜殿氏の上ノ郷城と対峙する城で、江戸時代には陣屋が置かれ深溝藩(ふこうずはん)の藩庁として機能した時期も。

後に島原藩主となった深溝松平家の居城

松平氏の庶流にあたる深溝松平家は、松平忠定(まつだいらたださだ)が初代。
大永4年(1524年)、五井松平家(現在の蒲郡市五井町が拠点)の松平元心(まつだいらもとむね)は、松平長親(まつだいらながちか=徳川家康の高祖父)の命により、大場景紀の居城・深溝城を奪取し、弟・松平忠定の手柄ということで松平忠定の居城になりました。

その後、徳川家康の三河統一の過程で、家康、さらには酒井忠次(さかいただつぐ=徳川四天王)の配下として活躍、慶長6年(1601年)、深溝松平家5代・松平忠利(まつだいら ただとし)は初代の深溝藩主となりますが、慶長17年(1612年)、3万石に加増され吉田藩(現・豊橋市)に転封となって、深溝城は廃城に。

寛永元年(1624年)、大坂の陣で活躍した板倉重昌(いたくらしげまさ)は再度、深溝藩を立藩していますが(以降は深溝陣屋として機能)、寛永14年(1637年)、島原の乱で戦死しています。
藩主は子の板倉重矩(いたくらしげのり=老中、京都所司代に任命)が継いでいますが、板倉重矩は藩庁を深溝から中島(現・岡崎市中島町)に移して三河中島藩を立藩したため、深溝藩は廃藩となっています。

深溝城は、現在三協幸田工場の敷地となっているため、見学できるのは正門脇、道路沿いの石碑と案内板のみとなっています。

東にある本光寺(あじさい寺)は、松平忠定の開基で、後に島原藩主として西国大名の監視の重責を担った深溝松平家の菩提寺。
深溝松平家の歴代当主は、死後、遺骸を必ず発祥の地である深溝に埋葬するという決まりがあり、深溝松平家(大名家)の廟所があります。

深溝城
名称 深溝城/ふこうずじょう
所在地 愛知県額田郡幸田町深溝丸ノ内
電車・バスで JR三ヶ根駅から徒歩10分
ドライブで 東名高速道路音羽蒲郡ICから約15km
駐車場 なし
問い合わせ 幸田町生涯学習課 TEL:0564-63-5141
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
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