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9月15日は関ヶ原合戦の日

関ヶ原合戦

天下分け目とされる関ヶ原の戦いは、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で火蓋が切って落とされました。徳川家康率いる東軍、石田三成の西軍という構図で、徳川方の主力・徳川秀忠の軍勢は合戦に間に合いませんでしたが、東軍の勝利に終わっています。

徳川軍勝利の功績者は、福島正則と黒田長政

関ヶ原の合戦を単純に徳川方と豊臣方の闘いと捉えるのは間違いで、徳川方の主力・福島正則は、秀吉と同じ尾張国(現・愛知県)出身で秀吉の縁戚。
秀吉よりもは24歳も年下ですが、福島正則の母は、秀吉の叔母で、従兄弟(いとこ)の関係。
その関係で秀吉のもとで頭角を表し、賤ヶ岳戦いでは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取るという大功を立て賤ヶ岳の七本槍の筆頭となっています、。

もうひとりの徳川方の主力・黒田長政も父は秀吉の軍師として名高い黒田官兵衛(黒田孝高)。
秀吉の配下として九州平定、文禄・慶長の役で活躍しています(文禄・慶長の役では石田三成や小西行長らと対立)。

関ヶ原合戦の直前に黒田長政は家康の養女・栄姫と再婚し、徳川方に付いたことを明確にさせ、去就に迷う秀吉恩顧の武将らと交渉。
武断派の福島正則らを東軍に参陣させたのも黒田長政の尽力があったから。

黒田長政の縁戚・平岡頼勝(ひらおかよりかつ=諸国流浪時代に秀吉に見出されて秀吉の家臣に、後に秀吉の甥・小早川秀秋の家老に/正室が黒田官兵衛の姪、黒田長政の従兄弟)を通じて、小早川秀秋、吉川広家(きっかわひろいえ)の寝返りの工作を行ない、関ヶ原合戦の趨勢に大きな影響をもたらしています。

家康、そして東軍にとって関ヶ原合戦第一の功労者は、黒田長政で、慶長8年(1603年)2月12日に伏見城で征夷大将軍に任官された際にも、黒田長政が同行しています。
さらに黒田長政自身の遺言状にも関ヶ原の戦いで家康が勝利し、天下人になれたことは父・黒田官兵衛と自身の活躍によるものと明言しています。

関ヶ原合戦開戦の地

関ヶ原の戦いに「世紀の大遅参」の秀忠を後継指名

徳川軍の本隊の徳川秀忠軍は、上田城の攻略に時間を費やし、ついに関ヶ原の合戦に「世紀の大遅参」。
徳川秀忠は、中山道・木曽路の妻籠宿(つまごじゅく/現・長野県南木曽町)で関ヶ原合戦勝利の報を受け取り大いに驚き、決戦から5日後の9月20日、ようやく近江の大津で家康に合流しています。

つまりは東軍は本隊の到着を待たずに合戦に突入し、旧豊臣方の大名の活躍で勝利したことに。

関ヶ原合戦は、徳川対豊臣という単純な構図ではなく、あくまでも徳川家康対石田三成の構図で、家康の征夷大将軍就任で豊臣時代に終焉ということになったのです。

家康は、「世紀の大遅参」の秀忠を後継者にすべきかどうかを、重臣の5人、大久保忠隣(おおくぼただちか)、本多正信、井伊直政(いいなおまさ)、本多忠勝、平岩親吉(ひらいわちかよし)を密かに集めて打診。

本多正信は結城秀康(ゆうきひでやす=家康の次男/関ヶ原合戦時には対上杉で宇都宮を守備)を推し、井伊直政は松平忠吉(まつだいらただよし=家康の四男)の名を挙げ、秀忠を推挙したのは大久保忠隣のみという有り様でした(家康は秀忠の遅延をあくまでも不運と考えていたと推測されています)。
しかし、家康はこの密談の2日後、太平の世のリーダーとして、自身の後継に秀忠と発表し、徳川の時代を確固たるものにしていくのです。

ちなみに関ケ原観光協会は今年、9月15日を「関ケ原合戦の日」と定め、日本記念日協会に登録しています。
ただしあくまで旧暦の9月15日なので、新暦だと秋たけなわの10月21日ということに。

徳川家康最後の陣跡
9月15日は関ヶ原合戦の日
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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