天平13年(741年)、聖武天皇の詔(みことのり)により、国家鎮護のために諸国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)のひとつが、安房国分寺。千葉県館山市国分にある後継寺院の安房国分寺一帯が安房国分寺跡だと推測され、往時の礎石が残され、瓦なども出土しています。
金堂の基壇と推測される遺構が発見されている
安房国分寺跡は現在の国分寺とほぼ同じ場所で、薬師堂の左に金堂の基壇が確認されているほか、平瓦、軒丸瓦、三彩獣脚が出土しています。
安房国は養老2年(718年)に上総国(かずさのくに)から分かれて成立。
天平13年(741年)にいったん上総国へ併合された後、天平宝字元年(757年)に再び分離して立国しています。
安房国分寺は、国庁とともに古代には安房国(あわのくに)の最大の建築物だったと推測されますが、安房国分寺の建立は奈良時代末とする説、安房国には国分寺はなかったとする説までもあり、今後の解明が待たれるところ。
安房国分寺の北方900mの地に、尼坊と推測できる「アマンボウ」という地名が残り国分尼寺のあった地である可能性が残されています。
現在の国分寺は正式名を日色山国分寺という真言宗智山派の寺。
寺伝によればでは天平15年(743年)、国司の太木綿麿(ふとぎゆうまろ)が寺地を寄進し、行基作の薬師仏を本尊として建立、日色御堂と称したのに始まるとのこと。
その日色御堂が国分寺として機能した可能性も残されています。
安房国の国府はどこにあった!?
斎部広成(いんべのひろなり)が大同2年(807年)に編纂した『古語拾遺』(こごしゅうい)によれば、阿波国(あわのくに=現・徳島県)で麻などを栽培していた天富命(あめのとみのみこと)は、東国を開拓のため阿波の忌部氏(いんべうじ)を率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良海岸(阿由戸の浜)に上陸。
故国・阿波の名をとって安房、良い麻が生育した国は総国(ふさのくに)となったとされています。
南房総から開拓が始まったので、房総半島の南側が上総(かずさ)、北側が下総(しのうさ)になったという伝承で、地政学的にも辻褄(つじつま)は合います。
律令制度が始まり、奈良時代の養老2年(718年)に置かれた安房国(あわのくに)の国府・国庁(政庁=現在の県庁)がどこにあったかは判明していません。
その有力な推定地となっているのが宝珠院(南房総市府中687)。
一帯の字名も府中、そして宝珠院からは円墳3基が見つかっていることが有力な根拠。
現在、イオンタウン館山(館山市八幡)のある平久里川の河口一帯の字名が湊なのはそこに古代から中世にかけての湊があったから。
つまり、古代には大和朝廷が、関東へ進出する際の最初の停泊地となった湊で、その少し上流に国分寺、国分尼寺(館山市国分)、国府・国庁(南房総市府中)が配されたと推測できるのです(湊、国分、府中という字名に注目を)。
ちなみに、国司が参拝した安房国の総社は、鶴谷八幡宮(館山市八幡)、その 元社は元八幡神社(南房総市府中)、一之宮が安房神社(館山市大神宮)、二之宮が洲崎神社(館山市洲崎)と洲宮神社(館山市洲宮)とするのが通説です。
安房国分寺跡(安房国分寺) | |
名称 | 安房国分寺跡(安房国分寺)/あわこくぶんじあと(あわこくぶんじ) |
所在地 | 千葉県館山市国分959 |
電車・バスで | JR館山駅から日東バス館山鴨川線、または、館山千倉線で国分寺前下車、徒歩1分 |
ドライブで | 富津館山道路富浦ICから約7km |
駐車場 | 5台/無料 |
問い合わせ | 館山市教育委員会生涯学習課 TEL:0470-22-3698 |
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