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「中国地方」、どこが基準で、いつ生まれた地名!?

岡山県、広島県、鳥取県、島根県、山口県の5県は一般に中国地方と呼ばれ、四国と合わせて中国四国と呼ばれることも。また山陰山陽とも称されますが、いつから「中国地方」という呼び名が生まれたのでしょう。日本の真ん中である「中国」は近畿や東海地方の方が地理的には当てはまるような気もしますが・・・。

律令時代に「近国」、「中国」、「遠国」の区分が誕生

現在の行政区分の一例

大化元年(645年)に中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足らは「大化の改新」(豪族の私有地や私有民を廃止して国家が直接支配する「公地公民制」を導入)を断行、中国を真似、先進の中国に認められるために、大王(天皇)中心の中央集権態勢を目指した改革が始まり、律令制が導入されます。

律令制の始まりとともに、中央集権態勢確立の過程で、平城京・平安京のある畿内に近い場所が「近国」(きんごく)、遠く離れた地域が「遠国」(おんごく)、そしてその中間が「中国」(ちゅうごく)という呼び分けが誕生。

平安時代に編纂された『延喜式』によれば、「近国」は、現在の三重県、愛知県、岡山県、和歌山県、鳥取県東部などなど17ヶ国、「遠国」は、関東以北、越後以北、安芸・石見以南と土佐国(石見国、土佐国、日向国、大隅国、薩摩国)となっています。

その中間の「中国」は、遠江国・駿河国・伊豆国(現・静岡県)、甲斐国(山梨県)、飛騨国(岐阜県北部)、信濃国(長野県)、越前国(福井県)、加賀国・能登国(石川県)越中国(富山県)、伯耆国(鳥取県)、出雲国(島根県東部)、備中国(岡山県)、備後国(広島県)、阿波国(徳島県)、讃岐国(香川県)となっています。

現在、中国地方に含まれるはずの石見国・隠岐国(現・島根県西部)、周防国・長門国(山口県)、安芸国(広島県西部)は陸路で京から遠いこともあって、「遠国」に含まれています。
逆に因幡国(鳥取県東部)、備前国・美作国(岡山県)は「近国」というように、現在の中国地方とはエリアが少し異なります。

当時は瀬戸内海、日本海の海上交通が移動の大きな手段だったため、現在の香川県や徳島県は「中国」に含まれていました。

しかも律令時代の「中国」には、長野県や北陸、静岡県なども含まれていて、現在の中部地方が「中国地方」になった可能性もあったのです。

畿内と九州の間の「中国」が中国地方に変化

中国地方最大の都市は、広島市

なぜ、中部地方が「中国地方」にならなかったのでしょうか?
答えは簡単です。
日本が倭国だった古代から、北九州は大陸(朝鮮半島や中国)への玄関口でした。
3世紀末の『魏志倭人伝』に記された中国・三国時代の魏の使者も、邪馬台国(やまたいこく)に訪れる際、北九州に上陸しています。
7世紀後半〜12世紀後半、筑前国(現・福岡県)に設置された大宰府政庁は行政機関として九州を統括し、「西の都」としての役割を果たしました。
そもそも、都人との目は、東国よりも大陸、そして大宰府を見ることが多かったのです。

こうして、平安京と太宰府との間の国々をを「中国」と呼ぶのが一般化、それが、南北朝時代に山陽道、山陰道の充実もあって、周防、長門(山口県)、出雲(島根県)などが中国に加わり、本来は「近国」の岡山県も加えて山陰道と山陽道を中国地方と呼ぶように変わっていったのです。

明治25年には広島県で中国新聞の創刊号「中國」が発行され、内村鑑三も山口県人と広島県人を「中国人」と呼んでいるので、明治時代には、広島県は中国を自称し、山口県人・広島県人を「中国人」と呼び分けていたことがわかります。
当時、大陸の中国人は支那人(しなじん)と呼ばれ、「中国人」といえば山口県人・広島県人を指したのです。

実際の行政区画として現在の中国地方が定着したのは大正時代以降で、山陽本線、山陰本線(全通は昭和8年)など近代的な交通網の整備もその背景にはあると推測できます。

「中国地方」、どこが基準で、いつ生まれた地名!?
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「中国地方」、どこが基準で、いつ生まれた地名!?

岡山県、広島県、鳥取県、島根県、山口県の5県は一般に中国地方と呼ばれ、四国と合わせて中国四国と呼ばれることも。また山陰山陽とも称されますが、いつから「中国地方」という呼び名が生まれたのでしょう。日本の真ん中である「中国」は近畿や東海地方の方

 

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