現在の関東地方(1都6県)は、江戸時代(近世)の関八州(武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸)に由来しますが、その場合の「関」(せき)は箱根の関所を意味します。ところが、関の東、関東という言葉が生まれた際には、現在の東海地方、中部地方も関東だったことはあまり知られていません。
古代、関東は鈴鹿峠から東だった!

関所の東側=「関東」という言葉が生まれたのは、天武天皇が673年(天武天皇2年)に東山道に不破関(ふわのせき)を、東海道に鈴鹿関(すずかのせき)を、北陸道に愛発関(あらちのせき)を設置してから。
大海人皇子(おおあまのおうじ)は、672年(天武天皇元年)の壬申の乱(じんしんのらん)で、天智天皇の後継と目された大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位、天武天皇となっています。
この後継をめぐる皇弟と皇子の争い(壬申の乱)は古代日本最大の内乱だったため、都とした飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや/奈良県明日香村)を守るため、不破関、鈴鹿関、愛発関を設けたのです。
東山道の不破関は天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった、現在の岐阜県不破郡関ケ原町。
近世には中山道が通り、関ヶ原宿が置かれました。
東海道の鈴鹿関は現在の三重県亀山市で、近世には関宿が繁栄しました。
北陸道に愛発関は、福井県敦賀市にあったとされる関所で、北陸の入口を守備していました。
こうした古代の三関(さんげん)の東が、「関東」なので、現在の三重県を含めての東海地方、北陸地方などは、「関東」ということになります。
関八州という言葉が生まれたのは、江戸に幕府が置かれた近世。
箱根の関から東の8ヶ国の意で、俗に「八州廻り」(はっしゅうまわり)と呼ばれる関東取締出役(かんとうとりしまりでやく)も配されて、天領(幕府領)、旗本領、大名領などの区別なく取締が行なわれ、治安維持が重視されたエリアでした。
関東を坂東とも呼びますが、この坂東という名称のほうが古くから使われ、東海道・足柄峠(足柄之坂・あしがらのさか)、東山道・碓氷峠(碓氷坂・うすいさか)の坂から東が坂東ということに。
この場合の坂東は時代は東国とほぼ同義語で、鎌倉に幕府が置かれた際にも都は京にあったため、後の関東の武士集団は坂東武者などと呼ばれました。
室町時代に関東管領が誕生

関東という言葉が具体化したのは、中世。
鎌倉幕府が支配していた知行国は、関東御分国(かんとうごぶんこく)と称していましたが、時代によって変遷があり、エリアというよりも領土といった意味合いが強い感じです。
相模、武蔵、伊豆、駿河、上総、下総、信濃、越後、豊後、陸奥、出羽などで、九州や東北も含まれていたのです。
少しエリア的な概念となるのは室町幕府が設置した関東管領(かんとうかんれい)、関東公方(かんとうくぼう)から。
この関東管領、関東公方の統括するエリアは、関東10ヶ国(武蔵、相模、上野、下野、上総、下総、安房、常陸、伊豆、甲斐)で、関八州に比べると伊豆、甲斐が加わった広範囲となっています。
ここでも関東の概念が、当初の鈴鹿関の東から、かなり東に移っていることがわかります。
江戸時代に徳川家康が江戸に幕府を開き、京を結ぶ東海道・箱根宿を最重要な関所としてから、関八州=関東となり、それが今も続いています。
「エリア名は、時代とともに変遷する」と考えるなら、遠い将来、ひょっとすると、関東が関東でなくなることがあるのかもしれません。
「関東地方」はいつ生まれた地名!? 実は東海地方も関東だった時代が! | |
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