大正6年に建てられた大阪商船門司支店の建物が、門司港レトロ地区にある旧大阪商船。灯台にも似た八角形の塔屋が特徴的な木造2階建ての洋館です。外装にオレンジ色のタイルが敷き詰められ、帯状に白い石で装飾されているので、一見すると煉瓦造りにも見えますが、この建物が、外洋航路の客船のターミナルでした。
灯台としての役割も担った八角形の尖塔が目印
建設当時の大正時代には、1階は待合室、2階はオフィスとして使われ、門司港からは1ヶ月間に台湾、中国、インド、欧州へ60隻もの客船が出航し、大陸航路の待合室として多くの乗船客で賑わっていました。
大阪商船は、第一次世界大戦を契機に大正3年、青島陥落に伴い大阪青島線、大正4年にサンフランシスコ航路(桑港航路)、横浜香港線、大正5年に豪州南洋線、南米線、大正7年にスマトラ線と次々と新航路を開設しています。
たとえば大正7年の横濱孟買(ボンベイ)線は、四日市、大阪、神戸、門司、香港、新嘉坡(シンガポール)、コロンボに寄港し、西貢丸、印度丸、呂宋丸など6隻で月2便の運航でした。
現在、待合室だった1階は「わたせせいぞうと海のギャラリー」と門司港を中心とした地域作家の作品ブランド商品を販売している「門司港デザインハウス」、2階は貸しホールとなっています。
大阪商船初代社長(当時は頭取)には、38歳で別子銅山支配人となった住友家総理人の広瀬宰平(ひろせさいへい)が就任しています。
日本最初の鋼船「加茂川丸」、3連レシプロ機関を搭載した「宇治川丸」などが就航。
さらに明治23年7月、初の海外航路となる大阪釜山線を開設、続いて明治26年3月大阪仁川線、6月朝鮮沿岸線を開設し、瀬戸内海航路から外洋航路へと進出します。
日清戦争には多くの船が徴用されましたが、明治政府は海運を重視し、航海奨励法および造船奨励法が施行され、大阪商船は日本郵船と競うように明治29年に台湾航路、明治31年に揚子江航路、明治32年北支航路、明治33年南支航路に就航。
日露戦争でも多くの船が徴用され、一部は撃沈されていますが、戦後は大阪ウラジオストック、大阪天津、大阪大連、香港上海などの航路が新設されています。
海運不況の明治40年代にも大阪別府線などの国内航路を拡充、北米、南洋、東亜方面の不定期運航を開始しています。
大正2年にはボンベイ航路の定期航路化にこぎつけ宿願の遠洋航路進出を果たしています。
大正3年に第一次世界大戦が勃発しますが、その戦争特需もあって、大正3年、青島陥落に伴い大阪青島線、大正4年サンフランシスコ航路、横浜香港線、大正5年豪州南洋線、南米線、大正7年にスマトラ線と次々と新航路を開設しています。
玄関口となった門司港に大阪商船門司支店の建物が建てられた大正6年は、まさに大阪商船の黄金時代だったのです。
大阪商船は、第二次世界大戦後、三井船舶と合併し、大阪商船三井船舶(商船三井)となり、日本最大の商船会社と発展します。
現在も商船三井客船、商船三井フェリー、名門大洋フェリー、フェリーさんふらわあのMOLグループとして、「にっぽん丸」などの豪華客船、「さんふらわあ」などのフェリーを運航しています。
大阪商船の内航部を分離して設立した関西汽船の大阪〜別府航路は、フェリーさんふらわあが後継会社として就航しています。
旧大阪商船 | |
名称 | 旧大阪商船/きゅうおおさかしょうせん |
所在地 | 福岡県北九州市門司区港町7-18 |
関連HP | 門司港レトロ公式ホームページ |
電車・バスで | JR門司港駅から徒歩3分 |
ドライブで | 関門自動車道門司港ICから約2.3km |
駐車場 | 門司港レトロ駐車場(250台/有料、海峡プラザの店舗での購入で割引あり) |
問い合わせ | 門司港レトロ総合インフォメーション TEL:093-321-4151 |
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