福岡県福岡市東区を流れる多々良川(名島川)に架かる西鉄貝塚線(貝塚駅〜西鉄新宮駅)の鉄道橋が、名島川橋梁(なじまがわきょうりょう)。大正12年、西鉄の前身、博多湾鉄道汽船(湾鉄)が架橋した歴史ある橋で、橋長211.8m、径間12.0mの16連アーチ橋で土木学会選奨土木遺産にもなっています。
福岡市内に現存するコンクリート橋として最古の橋
大正13年5月23日、新博多駅(後の千鳥橋駅、昭和54年2月11日廃止)〜和白駅間10.8kmの開業に伴い、架橋されたのが名島川橋梁(単線)。
大正時代に延長が210m、16連にもなるプレストレストコンクリート(PC)アーチ橋梁が架けられた例はなく、実に貴重な存在です。
設計は、東京駅〜万世橋駅間の高架鉄道、大阪環状の高架鉄道なども手掛け、日本の鉄筋コンクリート工学の開祖といわれる阿部美樹志(あべみきし)。
九州では佐賀県庁舎旧本館も阿部美樹志の設計。
下流側に架かる国道3号の名島橋(国の登録有形文化財/コンクリート7連アーチ橋)が昭和8年の架橋なので、それよりも10年近く前に架けられていたことに。
名島橋は東京と鹿児島を結ぶ国道2号の橋として架けられているので、まずは鉄道を整備、その後、道路網ができあがるという明治史の縮図を見ているような2橋なのです。
西鉄の前身のひとつ、博多湾鉄道汽船とは!?
ちなみに博多湾鉄道汽船(開業時は博多湾鉄道)は、海軍炭鉱新原採炭所(後の国鉄志免鉱業所)開設による海軍の軍艦用石炭を糟屋郡志賀村西戸崎地区(現・福岡市東区西戸崎)の石炭積出港に運ぶために敷設されたのが始まり。
筑豊炭田の各炭鉱を結ぶ鉄道としても計画されたもので(当時の博多港は水深が浅く、石炭を運ぶような大型の船が着岸できませんでした)、出資者には資生堂創業者の福原有信(ふくはらありのぶ)、天狗煙草の岩谷松平(いわやまつへい=西南戦争で家を焼かれて上京、煙草産業の大立者となるまでに成長、明治44年、肥前電気軌道の初代社長に就任)などもいて、当初は本社も東京・銀座(東京市京橋区銀座)に置いていました。
西戸崎港を拠点として呉港、徳山港、そして鎮海湾(現・韓国慶尚南道)への「延長四〇〇浬(カイリ)に亘る近海航路」に汽船も運航したので、博多湾鉄道汽船と称したのです。
明治39年、志免村(現・志免町)で海軍炭鉱第五坑が採炭を開始したことから、明治42年8月1日、博多湾鉄道の酒殿駅〜志免駅間が延伸開通し、志免駅が開業しています(志免鉄道記念公園として整備されています)。
昭和17年9月22日、博多湾鉄道汽船などが5社が合併して西日本鉄道を設立していますが、西戸崎駅 〜宇美駅間は、戦時買収により国有化され、現在もJR香椎線(かしいせん)として現存しています。
名島川橋梁 | |
名称 | 名島川橋梁/なじまがわきょうりょう |
所在地 | 福岡県福岡市東区名島2〜箱崎7 |
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