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白山中居神社

白山中居神社

岐阜県郡上市白鳥町石徹白(いとしろ)に鎮座する社が白山中居神社(はくさんちゅうきょじんじゃ)。日本三霊山・白山を開いた泰澄(たいちょう)が養老年間(717年〜724年)に社域を拡張し天武天皇、聖武天皇の両朝に神剱、神馬の奉納があったという白山信仰と関わりの深い古社です。

美濃馬場、中居の地に栄えた白山信仰

美濃側からの白山登拝の道(美濃禅定道)は、白山中宮長滝寺(明治初年の神仏分離で長滝白山神社、長滝寺に)から檜峠を越え、石徹白(いとしろ)の白山中居神社(美濃馬場の中居の地)を経て、今清水社、神鳩社、水呑み権現社、別山室に至り、別山宮を参詣して、南竜ヶ馬場から頂上の御前峰に達するルートを使っていました。
白山信仰が隆盛した江戸時代、白山中居神社を中心に、石徹白の御師(おし)が、名古屋城下などで白山登山への呼び込みを行なった結果、石徹白は往時には「上り千人、下り千人」といわれた登拝者で賑わいをみせ、中継点の石徹白は村全体が神社の社家で宿坊となり、白山信仰を支えていたのです。

平安時代から江戸時代にかけて、藤原能信(ふじわらのよしのぶ=平安時代の公卿・歌人で藤原道長の四男)、奥州藤原氏第3代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などから寄進を受けています。

そんな隆盛を背景に、宝暦4年(1754年)〜宝暦8年(1758年)には、石徹白騒動が勃発。
白山中居神社神職・上村豊前が郡上藩寺社奉行・根尾甚左衛門と結んで、領を統治する神頭職・杉本左近と村民500人余を石徹白村から追放するという事態が起こり、宝暦の郡上一揆もあったことから、時の老中の本多正珍(ほんだまさよし=駿河田中藩第2代藩主)が免職、若年寄・本多忠央(ほんだただなか=遠江国相良藩主)が領地没収(相良藩主に田沼意次が就任)、郡上藩主・金森頼錦(かなもりよりかね)が改易処分、陸奥盛岡藩の南部利雄に預かりになるなど、幕政を揺るがす大事件になっています。

もともとは、杉本左近は白山信仰の両部神道派(白山大権現=神仏習合)、これに対して神主の上村豊前は、それまでの神仏習合(本地垂迹説)を否定する唯一神道(吉田神道=反本地垂迹説)派で、結果、神主の上村豊前が死罪となっています(当時は、神仏習合で、正しくは神主ではなく社僧といわれた時代です)。

現存する本殿は安政3年(1856年)築で、正面の粟穂に鶉(うずら)、竜と脇障子の彫り物は岐阜県の重要文化財に指定。
京都御所の御門、江戸・小石川白山神社の彫刻と同じ諏訪の立川和四郎2代・冨昌の作品。

社前には、宮川が流れ、戦前までは丸太橋が架かって結界になっていました。

祭神の菊理媛神(くくりひめのかみ)は、白山比咩神(しらやまひめのかみ)で神仏習合時代の白山権現のこと。
かつて祀られていた白山を開山したとされる泰澄像、藤原秀衡から寄進されたと伝わる木造虚空菩薩坐像坐像(国の重要文化財)は神仏分離で、今は1kmほど南に大師堂が建てられ、安置されています。

本殿から徒歩15分の裏山にある浄安杉は、樹高35m、樹齢1000年以上の古木。
本殿の周囲には杉の大木、ブナ原生林となっていて「白山中居神社の森」として岐阜県の天然記念物に指定されています。

毎年5月第3日曜の『春季例大祭』には雅楽に合わせて舞いを奉納する「五段の神楽」が行なわれています。

白山中居神社
名称 白山中居神社/はくさんちゅうきょじんじゃ
所在地 岐阜県郡上市白鳥町石徹白3-48
関連HP 白鳥観光協会公式ホームページ
電車・バスで 長良川鉄道美濃白鳥駅からタクシーで30分
ドライブで 東海北陸自動車道高鷲ICから約22km
駐車場 10台/無料
問い合わせ 白鳥観光協会 TEL:0575-82-5900
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

長滝白山神社

東海の人々は古来から遠くに浮かぶ雪の積もった白い山、白山を水神様(農業の神様)として信仰してきました。なかでも岐阜県郡上市白鳥町にある白山中宮長滝寺(長滝白山神社・長滝寺)は養老年間に泰澄(たいちょう)が創建して以来、白山信仰の中心地、東海

 

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