関ヶ原の合戦では西軍の石田三成の本拠地となった城が大垣城。1535(天文4)年、美濃守護・土岐一族の宮川安定により創建。1596年(慶長元)年に伊藤祐盛が、豊臣秀吉の命により4層4階建ての天守を築いています(天守完成は天正16年・1588年とする説もある)。大垣城跡には現在、復興天守が建ち、「続日本100名城」に選定。
藩政時代には大垣藩の藩庁で、戸田氏11代の居城
関ヶ原合戦の拠点として機能した大垣城ですが、藩政時代は比較的に平穏でした。
1635(寛永12)年、摂津・尼崎城から戸田氏鉄(とだうじかね)が10万石で入封。
以降、明治維新に至るまで戸田氏11代の治世の拠点となっています。
天守は明治維新後も破却されることなく、昭和11年に国宝に指定されましが、残念ながら太平洋戦争の大垣空襲で焼失。
昭和34年4月に、4層4階の天守閣を、昭和42年に乾櫓を再建復元しています。
しかし、郡上八幡城を参考に外観復元したコンクリート造りのため、四層の窓を小さくするなど平成22年〜平成23年に焼失前の本来の外観に近くなるように改修されています。
大垣公園として整備されているのはかつて本丸や二の丸があった場所。
築城当時は水門川を外堀にし、水の都・大垣らしい中堀、内堀を巡らした堅固な城でしたが、多くの堀は埋め立てられていて面影は薄まっています。
大垣城東門は、天守が復興された際に、七口之門(惣郭には大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の七口之門がありました)の1つである柳口門を移築したもの。
市内青野町の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が移築されています。
正保城絵図に見る 大垣城
1644(正保元)年、幕府が諸藩に命じて作成させた城下町の地図。
城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれています。
東西両軍は、当初この大垣城の攻防が戦いのポイントになると想定、徳川家康は水攻めを計画していました。
ところが清洲城を拠点とした東軍の福島正則、黒田長政らは木曾川を渡り、まず岐阜城を攻略。
さらに大垣城西北の勝山(岡山=現大垣市赤坂町)に陣取り、徳川家康も勝山に到着。
家康はさらに中山道を西へと進む構えを見せます。
このため大垣城に入城した西軍は、東軍の近江への侵入を防ぐため、福原長堯に城の守りを託して、9月14日夜、闇に紛れて関ヶ原へと本陣を移しているのです。
これを追うように東軍も関ヶ原へ。
こうして「天下分け目の関ヶ原」の戦いが始まるのです。
大垣城 | |
名称 | 大垣城/おおがきじょう |
所在地 | 岐阜県大垣市郭町2-52 |
関連HP | 大垣市公式ホームページ |
電車・バスで | JR大垣駅南口から徒歩7分 |
ドライブで | 名神高速道路大垣ICから約6kmで大垣市営丸の内駐車場 |
駐車場 | 大垣市営丸の内駐車場(251台/有料) |
問い合わせ | 大垣城 TEL:0584-74-7875/FAX:0584-74-7875 |
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