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関ヶ原古戦場・大谷吉継陣跡

関ヶ原古戦場・大谷吉継陣跡

関ヶ原の戦いで、最初に陣を構えたのは、智将・大谷吉継(おおたによしつぐ=大谷吉隆)。徳川家康とも懇意で、石田三成の挙兵計画にも「無謀であり、三成に勝機なし」と説得しますが、石田三成は聞き入れず、大谷吉継も西軍として参戦。その大谷吉継隊は、関ヶ原の合戦が始まる1ヶ月も前に若宮八幡宮上の急斜面に陣を築いています。

関ヶ原に最初に築かれた陣が、大谷吉継の陣

関ヶ原の戦いの際に、大谷吉継は、眼疾のために失明しており、輿(こし)の上から指揮しています。
大谷吉継陣跡は、空濠を巡らせて山中城(やまなかじょう)といわれるほどの構えをみせていました。
しかも、小早川秀秋の裏切りを予想し、松尾山の真正面に陣を定め、小早川秀秋隊の奇襲に備えて、600の隊を配していました。

それでも、最後には小早川秀秋らの離反で敗戦。
家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹。享年42。
大谷吉継率いる大谷軍の敗北は関ヶ原の戦いにおけるの趨勢を決定づけ、西軍潰走の端緒となりました。

『常山紀談』によれば、大谷吉継の首は側近である湯浅隆貞の手により関ヶ原に葬られ、徳川軍に発見されることがなかったと伝えられます(異説では米原に埋めたとも=現・滋賀県米原市下多良に首塚が現存)。
山中(やまなか)には「大谷吉継の墓」が現存しています。

ちなみに、大谷吉継の家紋は、「向かい蝶」と「鷹の羽」の2つありましたが、関ヶ原の戦いでは「鷹の羽」を使っています。

関ヶ原古戦場・大谷吉継陣跡
名称関ヶ原古戦場・大谷吉継陣跡/せきがはらこせんじょう・おおたによしつぐじんあと
所在地岐阜県不破郡関ケ原町山中30-1
関連HP関ケ原観光協会公式ホームページ
電車・バスでJR関ヶ原駅から徒歩30分
ドライブで名神高速道路関ヶ原ICから約2.6km
駐車場10台/無料
問い合わせ関ケ原観光協会 TEL:0584-43-1600/FAX:0584-43-0915
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

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