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地図で読み解く! 『魏志倭人伝』の旅

後漢滅亡後、魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)が分立した中国・三国時代。魏の使節が倭の女王、卑弥呼を目指した記録が、『魏志倭人伝』です。北九州・福岡県あたりまでは当時の王都も特定されているので、Google Map(グーグルマップ)で、魏の使節の行程を読み解いてみました。

對馬國から奴國までの旅は、ほぼルートが判明!

朝鮮半島から對馬國(対馬)まで

【髄(中国)から狗邪韓国へ】

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

現代語訳=郡より倭に至るには、海岸を巡りながら水行、韓国を経由、しばらく南、しばらく東に航海し、倭のの北岸、狗邪韓国(くやかんこく=3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国)に至る
七千余里なり

【狗邪韓國から對馬國(対馬)へ】

始度一海千餘里至對馬國

現代語訳=始めて海を渡ること千余里(実際には60km〜70kmほど)にして對馬国(現在の対馬)に至る

『魏志倭人伝』の旅(1) まずは對馬國に上陸

『魏志倭人伝』は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。3世紀末に西晋の陳寿が記した3世紀の日本を知る貴重な史料です。朝鮮半島から対馬を経て「邪馬台国」(やまたいこく)への道筋ですが、倭国最初の上陸地が對馬國

對馬國から一支國(壱岐)へ

又南渡一海千餘里

現代語訳=再び、南に海を渡ること千余里

【行程図(航路)】
実際のルートを当時の對馬國の湊(川を遡った川湊)と推測される地から、一支國の湊と判明している場所まで、航海マップを作成。
実測値は136kmとなり、単純計算すると136km÷1000里=0.136km/里
1000余里と記されているので、136km÷1080里=約125m
つまり、海路の1里は125mと推定できます。

『魏志倭人伝』の旅(2)一支國の王都へ!

中国の歴史書『三国志』中にある『魏志倭人伝』は、3世紀後半に記された倭人の記録。朝鮮半島から海を渡ってますは對馬國(現・長崎県対馬市)へ。再び海路目指したのが一支國(いきこく)です。『魏志倭人伝』には「一大國」と記されていますが一支國の誤記

一支國から末盧國へ

又渡一海千餘里至末盧國

現代語訳=再び、海を渡ること千余里にして末盧國に至る

末盧國の王都は現在の佐賀県唐津市の千々賀遺跡、王墓は桜馬場遺跡とほぼ特定されています。
千々賀遺跡は、2~3世紀頃の拠点集落であることが明白で、ちょうど『魏志倭人伝』の記された時代と一致するからです。

【行程図(航路)】
壱岐(一支國)から末盧国(唐津)への海上ルートは、現在も海路があるのでほぼそれに沿わせていると、実測値は47.5km。
前回の「海路1里=125m」にあてはめると380里となって、1000余里とはほど遠い数値となります。
当時は風と海流まかせですので、まっすぐ唐津を目指したとは考えづらいので、どこか佐賀県の海岸に到達して、沿岸を進んだのかもしれません。

『魏志倭人伝』の旅(3) 末廬國の王都へ!

3世紀の倭(日本)の女王の都が置かれた邪馬台国を探る手がかりとなる『魏志倭人伝』。その記述から朝鮮半島南部から対馬、壱岐を経て、北九州に至る行程がわかっていますが、九州で最初の訪問国となったのは、末廬國(まつらこく)。現在の佐賀県唐津市だと

末盧國から伊都國へ

東南陸行五百里到伊都國

現代語訳=東南に陸行すること五百里にして伊都國に到る

伊都國の王都は福岡県糸島市の三雲・井原遺跡群、曽根遺跡群一帯と特定されています。
女王が統治した国であることが『魏志倭人伝』には記されています。

【行程図(陸路)】
肥前国松浦郡唐津(現・佐賀県唐津市)から筑前国志摩郡(現・福岡県糸島市)に至る古道は、唐津街道。しかし近世の江戸時代に整備された道。
九州に官道が整備されるのは、太宰府設置以降だと推測できるので、末盧国から伊都国への道はあくまでも推測の域を出ません。

一応海岸沿いに歩いたとすると、36.5kmしかありません。
現在の道路改良された県道や国道でこの数字ですから、古代の道をうねうねと岬を回り込んで歩いたとすれば1.5倍から2倍の距離があったと考えられます。
仮に1.7倍とすると、36.5km×1.7=62.05km
仮に海路の「1里=0.125m」をあてはめてみると496.4里となり、案外正確な距離だということが判明します。
ただし、東南ではなく、東北東に進んでいます。
東南と記されていることから、実際には少し山側を歩いたのかもしれません。

『魏志倭人伝』の旅(4)伊都國の王都へ!

中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻、通称『魏志倭人伝』に記された魏(220年〜265年)の使節の記録。日本では弥生時代の末期、小国家が形成された時代です。朝鮮半島から対馬、壱岐を経て北九州の末盧國(現・松浦=佐賀県唐津市)に上陸した

伊都國から奴國へ

東南至奴國 百里

現代語訳=東南、奴國に至る、百里なり。

金印で知られる奴國は、豊かな博多平野と、対外貿易の基地となる博多湾を擁して住居も2万戸を数える大国でした(ただし金印は西暦57年なので200年ほど年代差があります)。
須玖岡本遺跡(福岡県春日市岡本)で発見された甕棺墓(かめかんぼ)からは、前漢鏡30面のほか多数の副葬品が発見され、王墓ではないかと推測されています。

【行程図(陸路)】
伊都國(糸島市)から奴國(春日市)への道(福岡県内の移動)は、県道49号大野城二丈線を比定してみました。
日向峠の難関が立ちはだかりますが距離は27.5km。
ほぼ田畑を歩くので、古代とあまり距離数が違わないと想定しても220里となり、100里とは大きな差が出ます。
仮に那珂遺跡群(福岡市博多区)あたりに奴国の王都があったとしても、まだ200里近くある計算になり、100里という数字には疑問が生まれます。

『魏志倭人伝』の旅(5)奴國の王都へ!

3世紀に三国時代の中国・魏の使節が倭国を訪れた際の記録が『魏志倭人伝』。弥生時代後期に小国が群雄割拠しながら、邪馬台国の配下となっていた時代です。使節は朝鮮半島から対馬、壱岐を経て、末廬國(佐賀県唐津市)へ。さらに陸路で伊都國(福岡県糸島市

奴國から先は、まだ判明していません

奴國から不彌國へ

東行至不彌國百里

現代語訳=東行し、不彌國に至る、百里なり。

不彌國(ふみこく/不弥国)の王都は、まだ特定されていません。
有力なのは「宇美を中心とした糟屋地域説」(福岡県宇美町一帯)と「嘉穂地域説」(福岡県飯塚市)です。

糟屋郡内最大の前方後円墳である宇美町の光正寺古墳は3世紀頃の築造と考えられるので、光正寺古墳の調査で「宇美説=糟屋平野説」が有力な説として考えられるようになりました。
「嘉穂地域説」は、福岡県飯塚市の立岩遺跡群一帯が候補地です。

【行程図(陸路)】
仮に光正寺古墳が不彌國王墓で、その近くに王都があったと比定すると、奴國からの距離は9.7km。
1里=0.125kmとするならば、ほぼ100里となりドンピシャリの場所といえるでしょう。
位置的には北東から東北東となりますが・・・。

『魏志倭人伝』の旅(6)不彌國の王都へ!

3世紀、中国・三国時代の魏(ぎ)、呉(ご)、蜀(しょく)のうち、魏の使節が倭国を訪ねた記録が『魏志倭人伝』。対馬、壱岐を経て九州・末盧國(佐賀県唐津市)に上陸後、陸路、伊都國(福岡県糸島市)、大国の奴國(春日市)を経て、不彌國(ふみこく)に

不弥國から投馬國へ

南至投馬國水行二十日

現代語訳=南、投馬國に至る、水行二十日なり。

投馬國(とうまこく)も、まだ特定されていません。
不彌國から水行20日となると、不彌國=宇美町とするならば、地図を見る限り、まずどこの湊から船に乗ったのかという疑問も生じます。

瀬戸内を東に航海したなら発音が似ている備後国の鞆(とも)が投馬國とも考えられますが、邪馬台国・九州説では日向国都萬(西都市)が似た音でもあることから投馬國だと推定しています。
このほか山陰を航海して出雲説などもあり、百家争鳴の状態。

この投馬國の特定が、邪馬台国がどこにあったのかを特定する決め手となるので、妥協点も見いだせないのです。

『魏志倭人伝』の旅(7)謎深い投馬國へ!

『魏志倭人伝』には3世紀の倭の女王の都が置かれた邪馬台国(やまたいこく)を中心に、多くの国々が存在したことが記されています。対馬、壱岐をへて海路、北九州に至り、不彌国(ふみこく)から再び「水行二十日」という長旅で投馬國(とうまこく、つまこく

【投馬国から邪馬台国】

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月

現代語訳=南、邪馬壱國に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月なり。

卑弥呼の治める邪馬台国へは、投馬國から南に行くということが、九州説の有力な根拠です。
大和(現・奈良県)であるなら、東となるはずですが、『魏志倭人伝』には南としています。
海里10日の後に陸路1ヶ月ですから、やはり大和という気もしてきますが、九州島内を歩いて、現・吉野ヶ里遺跡に到達したという可能性もあります。

地図で読み解く! 『魏志倭人伝』の旅
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

 

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