サイトアイコン ニッポン旅マガジン

千姫の小径

千姫の小径

兵庫県姫路市、姫路城を取り囲む中堀の西側、船場川との間の中州部分に造られた遊歩道が千姫の小径。起点である市乃橋のたもとには、千姫の像も立っています。千姫は2代将軍・徳川秀忠の娘で、本多忠刻と再婚。姫路城に暮らし、播磨姫君と呼ばれていました。

千姫ゆかりの姫路城・化粧櫓を見上げる小径

千姫は、7歳で豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼と政略結婚。
大坂夏の陣で炎上する大坂城から救出され、江戸に帰る途中、桑名城主・本多忠政(ほんだただまさ=徳川四天王・本多忠勝の子、正室は家康の孫・熊姫)の子・本多忠刻(ほんだただとき)と運命的な出会いをします。
桑名の七里渡しの船中でたまたま本多忠刻と同船となり、惹かれ合ったというドラマチックな展開に。
津和野藩主・坂崎直盛(さかざきなおもり)は、千姫輿入れの行列を襲っての強奪を企てますが(千姫事件)、大名の坂崎氏はこれによって断絶。

その後、本多忠政は桑名藩主から、西国の押さえとして姫路藩主となり、元和3年(1613年)、千姫も姫路城に移り住んでいます。
千姫の小径は、千姫が忠刻とくつろいだ西の丸の化粧櫓(徳川家から輿入れ時に賜った10万石の化粧料で造ったとされる櫓)、侍女たちが待機した長局(ながつぼね)の白壁を見上げるコースとなるのが名の由来です。

姫路城下の物流を支えた船場川に注目!

姫路城は内堀(現存)、中堀(一部現存)、外堀(埋め立てされている)の3重の堀で守られており、さらに船場川の川筋を鍵形に付替えて、外堀の一部に利用して、防御機能を高めていました。
姫路城と姫路駅の間を横断する国道2号はかつての中堀にあたりますが埋め立てられて国道になっています。

千姫の小径の脇を流れる船場川は外堀としても機能の他、瀬戸内海交通の要衝である飾万津(しかまづ=飾磨津)との舟運も担っていました。
船場川という名も本多忠政が舟運に活用し、城下の物流を支えるために船場を築いたこと由来する名前で、姫路入城の翌年、元和4年(1618年)にはすでに高瀬舟が上っています(つまりは1年ほどで船場川を改修)。
上りは陸から綱で引き、下りは流れに任せて下っています。

江戸時代の舟運の名残りとしては、材木町に高瀬舟の舟溜りの船入川、八代本町(やしろほんまち)に船着場跡があります。

本多忠政が舟運にこだわったのは、藩主だった桑名でその重要性を目の当たりにしていたからかもしれません(姫路藩主となる前年に東海道の七里の渡しが始まっています)。

千姫の小径
名称 千姫の小径/せんひめのこみち
所在地 兵庫県姫路市本町
関連HP 姫路城公式ホームページ
電車・バスで JR・山陽電鉄姫路駅から徒歩15分
ドライブで 山陽自動車道山陽姫路東ICから約6km
駐車場 市営大手門駐車場(600台)、市営姫山駐車場(250台)、市営城の北駐車場(150台)/有料
問い合わせ 姫路城管理事務所 TEL:079-285-1146/FAX:079-222-6050
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

姫路城・化粧櫓

播磨姫路藩初代藩主となった本多忠政(ほんだただまさ)が、嫡男・本多忠刻(ほんだただとき)と千姫のために居館となる武蔵野御殿を築き、西の丸に、千姫の自由になる建物を設けたのが化粧櫓。徳川家から輿入れ時に賜った化粧料で造ったことが名の由来といわ

千姫ぼたん園

兵庫県姫路市本町、姫路城主で、姫路藩初代藩主・本多忠政(ほんだただまさ)の居館があった姫路城三の丸にある入園無料のぼたん園が、千姫ぼたん園。姉妹都市である中国山西省の古都・太原市から届いた紫霞仙など40株をはじめ、約2000株のぼたんが咲例

 

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

最新情報をお届けします

Twitter でニッポン旅マガジンをフォローしよう!

モバイルバージョンを終了